第44話 水上の盤面
出立前夜に襲撃があったものの、金陵の港を出てから船旅は順調だった。
だが、大運河の半ば、険しいな峡谷が迫る難所『泥龍門』に差し掛かったとき、異変は起きた。
北上を続ける北斗派の船団の前に、水面を跳ね上げるようにして、運河を横切る巨大な鉄鎖が立ち塞がったのだ。
「北斗派の残党め、ここが貴様らの墓場だ!」
鬨の声と共に、両岸の堤防を紫微教の弓隊が埋め尽くす。時を同じくして、背後からも無数の伏兵の小舟が迫り、退路を完全に断たれた。それはまさに、逃げ場なき「水上の檻」に閉じ込められた、絶体絶命の窮地であった。
しかし、激しく揺れる船首に立つ鳳嵐は、風に乱れた髪を直すことすらなく、ただ静かに計算尺を操っていた。その指先には、一厘の狂いもない。
「……数に頼るだけの凡夫どもに、水理の美しさを教えてやりましょう。美しくない戦いほど、効率の悪いものはありません」
鳳嵐は間髪入れずに指示を下した。
門弟たちは一斉に船の荷をすべて投げ捨て、船体の喫水を極限まで浅くする。時を同じくして、船尾からはあらかじめ用意していた特殊な油が、水面へと一気に撒かれた。
日没の瞬間、西日が低い角度で水面を射す。
「今だ」
鳳嵐の合図と同時に、上流の水門が閉じられ、水位が急激に数寸下がる。水流が止まり、油を湛えた水面は、陽光を跳ね返す完璧な「鏡」と化した。
強烈な逆光とその乱反射が、堤防の弓隊の目を焼き焦がす。
その隙を見逃さず、鳳嵐が敵陣へ向けて一本の火矢を放った。
――轟、と水上の油が爆燃する。
川面は一瞬にして火の海へと姿を変え、本物の炎と、鏡に映る幻影の炎が混ざり合った。
上下の境界を失い、烈光と熱霧に包まれた敵は、恐怖のあまり「動く影」のすべてを北斗派の襲撃と錯覚した。こうして両岸の弩弓隊は混乱に陥り、互いを標的として無差別に矢を射ち合い始める。
混乱する戦場の中、鳳嵐は背後の浩然に視線を送った。
「浩然殿。貴殿のその泥臭い歩法では、この美しい水上を汚すだけだ。だが……今から私が放つ三本の火矢、その『波紋』が重なる場所だけを跳べ。そこには沈められた廃船の残骸がある。水に足を濡らさず、首魁の首へ至る唯一の道だ」
浩然は苦笑いしながら、薬箱を肩から下ろす。
「はは、水の上を走れと? 無茶を言う。ですが、鳳嵐殿たっての願いなら聞き受けましょう」
「薬売りの知恵で水面を走っていたではないか。蓮華府での足さばき、もう一度見せてもらおう」
鳳嵐が放った三本の火矢が、燃える水面に新たな波紋を描く。水位が下がったことで、水面下わずか数寸のところまで浮上していた廃船の残骸――浩然はその「見えない足場」を、一厘の狂いもなく正確に踏み抜いていった。
何もない水面を疾走するその姿は、敵の目には不気味な鬼神の如く映ったに違いない。
「馬鹿な……! 泥龍門の水面を……ば、化け物め、貴様は一体――」
その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
浩然は返り血の一滴すら浴びることなく、恐怖に凍りつく男の喉元へ、鋭い薬刀を突き立てた。
◇
敵の首魁は討たれたが、統率を欠いた残党が退くにはなお時間を要した。北斗派の面々が乱戦の処理に追われていた、まさにその時である。
激闘の最中、安全な場所へ退避したはずの玲玲の背後に、不吉な影が音もなく忍び寄る。鈍く光る凶刃が、彼女の無防備な背中へ向けて振り下ろされた。
「――玲玲、動くな!!」
絶体絶命のその瞬間、横合いから凄まじい速度で割り込んだ浩然が、彼女の身体を強引に自らの背へと庇い、刺客の前に立ちはだかった。
囲む刺客は十数人。圧倒的な数的不利の中、浩然は静かに腰の帯へと手をかけた。
「浩然殿、まさか……お身体が保ちません!」
洞窟で見せたあの衰弱を思い出し、玲玲は思わず叫んだ。だが次の瞬間、それは銀の閃光となって夕闇を切り裂いた。
腰帯に擬態していた軟剣が、怒れる龍の如く空をうねる。玲玲を絶対に傷つけさせないという苛烈な意志を宿した、重厚にして神速の剣。目にも留まらぬ連撃が繰り出されたかと思う間もなく、黒衣の刺客たちは悲鳴を上げる暇さえなく次々と地に伏した。
一瞬の激闘の後。静寂の戻った泥龍門に、剣を納める「カチリ」という冷徹な音だけが響いた。
軟剣を腰帯に収めてなお、浩然の全身からは、万軍を退ける剣仙の如き凄まじい覇気が立ち昇っている。
玲玲はその圧倒的な威圧感に言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。だが、浩然が静かに歩み寄ってきた瞬間、空気が一変する。
射抜くように冷たかった彼の瞳が、玲玲の姿をその内に映した刹那、ふっと春の陽だまりのような温かさを取り戻したのだ。
「……怖がらせてしまったね。だが、もう大丈夫だ」
浩然は無骨な親指をそっと伸ばし、彼女の白い頬に飛んだ小さな返り血を、まるで壊れ物に触れるような手つきで、ゆっくりと拭い去った。
「……君の綺麗な顔が汚れるのは、どうにも耐えがたい」
目の前の男が秘める、敵を屠る無慈悲な強さと、自分に向けられる至高の慈しみ。そのあまりの乖離と、煙の匂いに混じる彼の温もりに、玲玲の心臓は爆ぜるように跳ねた。
(ああ、この人になら……地の果てまでついていきたい)
玲玲の胸の奥で、理屈を超えた恋の焔が鮮烈に燃え上がる。それと同時に、彼女は脳裏で一つの真実を確信していた。
この神速の剣、そして天を突くような気高き覇気――。
目の前の「しがない薬売り」の正体こそが、かつて武林にその名を轟かせながらも忽然と姿を消した伝説の剣客、南斗派の『暁陽剣仙』その人であることを。
◇
紫微教の軍勢が敗走し、泥龍門にようやく静寂が戻った。北斗派の船が再び動き出す中、星宇と烈華は、船尾で相変わらず計算に耽る鳳嵐を眺めていた。
「鳳嵐のやつ、頭が良すぎて可愛げがないのは相変わらずだな。だが……あいつが立てる軍略図の隅には、いつも小さな墨書きがあるんだ。『全船、蒼燕の港へ』とな。冷たい顔をして、誰一人としてこの泥水に沈める気はないのさ」
当の鳳嵐はしばらく思案していたが、やがて満足げに頷きながらひとりごちた。
「我ながら完璧な計算でした。一寸の狂いも……あ、あだっ!」
勝ち誇った顔で歩き出そうとした瞬間、鳳嵐は長い裾を自ら踏み、体勢を崩す。あわや運河に真っ逆さまというところで、烈華がひょいと彼の首根っこを拾い上げた。
「……鳳嵐。水理の計算は完璧でも、自分の足元の計算は苦手なようだな」
「……くっ、これは床面との摩擦係数の突発的な変動によるもので……放してください!」
「おい鳳嵐! 烈華ちゃんに向かってなんて口の利き方をするんだ!」
すかさず割り込んできた星宇に、烈華は無言で拳骨を叩き込む。
赤面する軍師と騒がしい一行を乗せて、船は夕闇の大運河を、北の本拠地へと進んでいった。




