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星漢共鳴曲  作者: ふじま
第4章
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第43話 不変の星の覚醒

玲玲リンリンが深い眠りについている間、浩然ハオランは闇に潜むいくつもの横穴を何度も探索し、ついに絶壁ではない、森へと続く細い出口を見つけ出していた。


穴に落ちてから三日目の朝。

玲玲の顔に朱が戻り、自力で歩けるまでに体力が回復したのを確認して、二人はついに洞窟を後にした。

洞窟の外は、数日前の嵐が嘘のような、眩いばかりの陽光に包まれていた。


「数日経っているが、奴らが諦めたとは限らない。追手の気配に気をつけながら進もう」


浩然は背後の玲玲を振り返り、優しく、けれど拒絶を許さない強さで言葉を継いだ。


「私のそばから、決して離れないように」


その言葉には、命を共有した者だけが知る深い響きがあった。

玲玲は小さく頷き、彼の背中を追う。


二人が合流地点へと辿り着いたとき、そこには焦燥に駆られた様子の星宇シンユーたちの姿があった。


「浩然殿! 玲玲殿!」


最初に気づいた鳳嵐フォンランが、弾かれたように駆け寄る。その顔には、冷静な彼らしからぬ安堵の色が浮かんでいた。


「……無事だったか。あの崖下で二人を見失ってから、皆、最悪の事態まで覚悟していた」


烈華リェファは言葉こそ厳しいが、玲玲の無事な姿を目にすると、隠しきれない涙で瞳を潤ませて彼女の肩を抱いた。

星宇もまた、扇子を握りしめながらも、小さく肩の力を抜く。


「二人とも、怪我はないかい? 浩然、お前の顔色も……」


星宇の問いに、浩然は玲玲と一瞬だけ視線を交わし、わずかに微笑んだ。


「ええ、色々とありましたが……玲玲の音に救われました」


仲間たちの輪に戻り、賑やかな声に包まれる。だが、二人の間には、他の誰にも踏み込めない静かな共鳴が、今もなお響き続けていた。



金陵きんりょうの地は、宿敵である南斗派の本拠地にほど近い。その静かな緊張が漂う街の片隅に、星宇や鳳嵐の呼びかけに応じた北斗派の門弟たちが、商客や旅人に姿を変えて続々と集結していた。


「南方へ向かう旅の途中、立ち寄った先々で北斗派にゆかりある者たちに声をかけておいたのだ。皆、再起の時を待っていた」


鳳嵐が鋭い眼光を光らせる。各地に散らばっていた門弟や傘下の勢力が、この金陵府を足がかりに大きなうねりとなろうとしていた。

集まった手勢を前に、星宇が地図を広げ、決然と告げる。


「私たちは京星大運河けいせいだいうんがを遡り、総本山である天枢城てんすうじょうへ向かおうと思う。」

「……いよいよ帰還か。長い旅だったな」


烈華が感慨深げに呟き、断鉄を強く握りしめた。

運河の果てにそびえる天枢城は、北斗派の誇りを取り戻すための光り輝く道標だ。


しかし、その帰還は、玲玲と浩然が共に歩んできた長い旅路の終着を意味していた。

北斗派の聖地へと戻る玲玲と、南斗派の宿命を背負う浩然。


(天枢城へ辿り着けば……私は、もうこの人の隣にはいられないのかしら)


玲玲は、賑わう金陵の喧騒が遠のいていくような錯覚に陥った。

浩然もまた、大運河の先を見つめたまま言葉を失っている。

二人の間に流れる沈黙は、あの洞窟で分かち合った熱をかき消すほどに冷たく、そして重い。

別れのときが、音もなく、けれど確実な足音を立てて近づいていた。



北斗派一行が金陵府の港を発つ、前日のことだった。


「星宇様! 街に、街に得体の知れない霧が……!」


見張りの者が転がり込むように駆け込んできた。男はそれだけを絞り出すと、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。


「大丈夫か! 誰か、浩然を呼べ!」


星宇の怒声に応えるかのように、窓の外では紫微教しびきょうの道士が放った「腐蝕の霧」が、音もなく街を飲み込もうとしていた。逃げ惑う民たちが次々と地面に倒れ伏していく。


霧の彼方から現れた紫微教の道士へ向け、烈華の断鉄が唸りを上げる。だが、大刀は虚しく霧を割るのみで、手応えはない。


――騙された。

刃が切り裂いたのはただの幻影であり、その軌道の先には、悲鳴を上げる民の姿があった。

守るために極めたはずの力が、いま、守るべき者を無慈悲に引き裂く。残酷な現実に、烈華の思考は完全に白く染まった。


「烈華殿! 早く中へ!」


鳳嵐が猛然と駆け寄り、彼女の身体を半ば強引に抱え込むようにして、拠点の奥へと引き戻した。

門弟たちは指示に従い、霧を遮断すべく素早く窓や扉を閉め切っていく。



拠点の奥室で、星宇は激しく思案に暮れていた。だが、何度頭の中で計算しても、導き出される答えは非情なものだった。


(拠点を死守すれば皆の命が危うい。民を切り捨てて強行突破すれば、確実に七割は助かるだろう……。感情を殺せ、趙星宇チャオ・シンユー。私は北斗を再興せねばならぬのだ)


「……拠点を放棄する。民を見捨てて全速力で包囲を突破するぞ。それが、我々が生き残る唯一の解だ」 


星宇の断腸の言葉に、鳳嵐が沈痛な面持ちで頷いた。軍師としての合理性は、彼と全く同じ結論に達していたからだ。


「ここで全滅しては北斗の未来はない。一を捨てて十を守る……それが次期宗主たる私の役割だ。教えだの誇りだのと言っている場合か!」


自分自身へ言い聞かせるように叫ぶ星宇だったが、机に置かれたその手は、隠しようもなく微かに震えていた。 


「退却だ」


星宇がその命を下そうとした時、浩然が静かに前に出た。彼は無言で薬箱を肩に担ぎ直すと、死地である霧の中へと歩み出す。


「浩然! 死ぬ気か、この馬鹿者が! お人好しにも程があるぞ!」


星宇の怒声が響く。だが、浩然は振り返ることなく、穏やかな、それでいて揺るぎない声で答えた。


「星宇殿。あなたの計算は常に正しい。だが、北斗の星が夜空から消えてしまえば、迷える旅人は何を信じて歩けばいい? 正しすぎる計算は、時に人を凍えさせてしまうものだ」


「……北斗の盾は、守るべき者の前でしか折れん」


浩然に続くように、烈華が断鉄を手に歩み出る。先ほど、己の力が民を傷つけた挫折に打ちひしがれていた彼女だったが、その瞳には再び、愚直なまでの火が灯っていた。


二人の背中を追うように、玲玲が麗弦リーシェンを抱えて霧の境界に立つ。彼女が奏でる凛とした旋律は、闇を切り裂く一筋の光となり、絶望に沈む民の心に小さな灯火を掲げていった。


自分の身も顧みず、民の盾となる浩然と烈華。そして、彼らを支える玲玲の調べ。その光景を呆然と見つめていた星宇の脳裏に、幼き日の記憶が鮮烈に蘇る。


「星宇よ。北斗七星の先にある「紫微星」はなぜ、あのように動かず、ただ一点で輝き続けると思う?」


かつて偉大なる父は、幼い星宇の頭を撫でながら静かに説いた。


「それは、天の秩序のかなめだからだ。嵐の夜も、戦の火に焼かれる時も、あの星が変わらずそこにあるという事実だけで、人は明日を信じることができる。その星の道標となるのが北斗七星。北斗派の宗主が背負うべきは、力ではなく『不変』という名の誇りなのだ」


(……そうか。父上たちが守りたかったのは、単なる門派の存続ではない。どんな闇の中でも変わらずに輝き続ける、北斗七星のような安心感そのものだったのか……!)


北斗の教えが「悪を断つ」と厳しく説くのは、単に敵を滅ぼすためではない。正義という秩序を維持し、人々に「この世界はまだ捨てたものではない」と信じさせるため。それこそが、北斗派が北斗派である理由なのだ。


星宇の瞳から冷徹な計算の色が消え、熱い意思が宿った。握りしめていた扇子をパチンと音を立てて閉じる。


「……やれやれ。北斗の教えなんて煩わしいだけだと思っていたが、どうやら私の魂も、あの動かない星に縛られていたらしい」


星宇は、迷うことなく自ら先頭に立った。これまでの安全圏からの采配をやめ、自らが囮となって敵の注意を引きつける。それは最も次期宗主らしくない、けれど誰よりも献身的な、命懸けの知略であった。


「烈華の背中は私が守る。浩然の献身も、玲玲の音色も、決して無駄にはさせない。……さあ、天のことわりを正す時間だ」


烈華の断鉄が、星宇の鋭い指示に応じて空を切り裂く。その一撃には、北斗の「剛」に加え、浩然の気の流れに触発されたような、南斗の「しなやかさ」が宿っていた。


浩然は薬箱から調合したばかりの粉を撒く。

「全員、湿らせた布で鼻を覆え!」

撒かれた粉末が毒霧に触れた刹那、その周囲だけ、一瞬にして目の前の視界が鮮やかに開けた。


「烈華殿、霧に惑わされるな! 敵の呼吸を音で探れ!」


浩然の冷静な指示に、烈華は視覚を捨て、大刀の振動だけで霧中の道士を正確に叩き斬る。


その背後から、玲玲の麗弦が生命の旋律を響かせた。


「烈華、左だ!」


星宇の鋭い指示に応じ、烈華の断鉄が南斗のしなやかさを纏って円を描く。

凄まじい風圧が、紫微教の不吉な霧を物理的に巻き上げて空へと霧散させていく。


「こちらだ!」


星宇は自ら前に出て派手な武功を放ち、幻影の術者たちの注意を一身に引きつけた。


「今だ!全速力で港へ!」


鳳嵐が動けるようになった民たちを港へと迅速に誘導していく。

五人の力が完璧に噛み合った知略により、一行は金陵の民を救い出し生還を遂げた。



霧が晴れ、夜明けを迎えた金陵の街。

星宇は泥にまみれた衣服のまま、救い出された民一人ひとりのもとを回り、言葉をかけていた。かつての軽薄な笑みは消え、その佇まいには北斗派の次期宗主としての、真の「格」が静かに備わっている。


ふと顔を上げた星宇は、歩み寄ってきた浩然の姿を認め、少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐにその目を見つめた。


「浩然。君のことは一生理解できないと思っていたが……どうやら、生涯の友として付き合っていくしかなさそうだね」


浩然は何も言わず、ただ静かに微笑んで頷いた。

趙星宇という星が、ついにその本来の輝きを取り戻した、忘れえぬ夜となった。

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