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星漢共鳴曲  作者: ふじま
第4章
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第42話 月光の誓い

黄金の残響がゆっくりと闇に溶けていき、洞窟には再び、静かな雨垂れの音だけが戻ってきた。


浩然ハオランの身体を内側から焼き焦がすようだった熱は、今や穏やかな温もりとなり、その四肢に確かな生命の脈動を呼び戻している。

閉ざされていた彼の視界に、焚き火の赤い火の粉が、そして目の前にいる玲玲リンリンの姿が、おぼろげに、けれど確かに光を取り戻していった。


「……浩然様? お顔の色が、良くなりましたわ」


弦を弾いていた指を震わせ、玲玲が彼の顔を覗き込む。


浩然は言葉を発することができなかった。ただ、自らの指先から放たれた気が、彼女の奏でる音色と溶け合い、魂の深淵までを掻き回されたような――自分という存在の境界線が、彼女の中に消えてしまったかのような、恐ろしいほどの充足感に震えていた。


「玲玲……君は、一体……」


浩然は、まだ琵琶の胴に添えられたままの玲玲の手を、自身の大きな手でそっと包み込んだ。

先ほどまで「気の弦」として繋がっていた感覚が、まだ掌に残っている。触れているのは肌と肌のはずなのに、互いの心臓の音が、まるで一つの太鼓を叩いているかのように重なって聞こえた。


「……不思議な感覚でした。浩然様の気を、私の指を通じて感じていました」


玲玲の瞳には、驚きと、そして隠しようのない高揚が宿っていた。

彼女にとっても、それはただの演奏ではなかった。文字すらまともに読めない自分が、この瞬間にだけは、この世の誰よりも深く浩然を――彼の命の形そのものを理解できたという確信があった。


浩然は、彼女を強く抱きしめたいという衝動を、かろうじて理性の淵で踏みとどまらせた。

だが、繋いだ手だけは離すことができない。


「……あんな音は、聞いたことがない。あれこそが、君の母上が……そして北斗と南斗が求めた、真の『共鳴』なのかもしれないな」


浩然の声は、微かにかすれていた。

二人は互いの視線を外すことができず、ただ熱を帯びた吐息を重ねる。

出口を塞ぐ雨はすでに上がり、洞窟には、雨上がりの夜の、澄み切った土の香りが流れ込んできていた。



その晩、玲玲は冷えがたたり、熱を出して寝込んでしまった。

浩然は彼女の麗弦リーシェンの音色で毒の苦しみが和らいでいたこともあり、一晩中、不眠不休で彼女の傍らに寄り添い続けた。


深い夜、悪夢にうなされて飛び起きた玲玲の背に、温かな掌が添えられる。


「……大丈夫だ。案ずるな、私はここにいる」


初めて会ったあの日のように、大きな手でトントンと、一定の刻みで背を叩く浩然。その無骨な手のひらから伝わる確かな安らぎに包まれ、玲玲は吸い込まれるように再び深い眠りへと落ちていった。


翌朝。

差し込む光に目を覚ますと、枕元で浩然が座ったまま、壁に背を預けて眠りに落ちていた。

常に隙なく身なりを整えている彼だったが、今は襟元が少しばかり乱れ、露わになった鎖骨が朝の光に白く浮き上がっている。そこから立ち昇る、仄かな薬草の香りと男の体温に、玲玲は思わずじっと見入ってしまう。

やがて、浩然が微かな吐息とともに瞼を持ち上げた。


「……ん……ああ、おはよう。顔色が良くなったな……よかった」 


寝ぼけ眼のまま、低く掠れた声で微笑む浩然。彼はまだ夢の淵にいるのか、吸い寄せられるように玲玲の隣へと横たわった。


「……もう少し、寝ていようか」


至近距離で見つめ合う形になり、玲玲が息を呑むのも構わず、浩然は大きな手で彼女の頭を優しく撫で――そのまま、引き寄せるように髪へ柔らかな口づけを落とした。


触れるだけの口づけのあと、彼は愛おしむように目を閉じ、玲玲の髪の香りを深く、深く吸い込んだ。

それは、普段の浩然からは想像もつかない、剥き出しの執着を感じさせる吐息だった。

本人は自覚のないまま、再び心地よさそうに微睡まどろみの中へ沈んでいく。


残された玲玲は、顔から火が出るような熱さに身悶えしながら、必死にかけられていた外衣を被った。心臓の音が、頭蓋にまで響いている。


(……っ、兄みたいなもの……なんて、嘘よ! こんなこと、ただの兄がするわけないじゃない!)


あんなに朴念仁ぼくねんじんだったくせに、無自覚にこんな反則技を繰り出してくるなんて。

玲玲は真っ赤になって絶句し、浩然のあまりの「ずるさ」に心の中で激しく叫ぶのであった。



その夜も玲玲は風邪の熱に浮かされ、深い眠りの中にいた。


洞窟の入り口から差し込む、冷ややかな月光。

浩然はその光を頼りに、独り静かに立ち上がった。

彼は剣を手にすることなく、ただ指先で空を切り、かつてその身に叩き込んだ南斗派の剣筋を静かになぞり始める。


流れるような円を描き、鋭く突きを放つ――。

だが、かつては滝をも断ち割ったその内力は、今や毒に喰い荒らされ、経絡を巡るたびに焼き付くような痛みを走らせる。


澄み渡る月夜の下、己の武が砂のように崩れ落ちていく感覚。

上衣をはだけると、遂に右腕の黒い筋が肩に達し、胸元へ向かって幾筋もの細かい枝分かれを見せ始めていた。


翠嵐すいらんの近くまで戻ってきたというのに……。きっと私はもう、あの場所へは、二度と戻れぬのだな」


故郷の山々、共に切磋琢磨した門弟たちの声。そして、誇り高く剣を振るっていたかつての自分。


月光に照らされた彼の頬を一筋、熱いものが伝い落ちた。

それは、助けられぬ命を見送ってきた薬売りとしての涙ではなく、己の魂そのものであった剣を失い、闇の中へと消えていく一人の武芸者としての、声なき慟哭どうこくであった。


浩然は溢れる涙を拭うこともせず、ふと、背後の暗がりに横たわる玲玲へと視線を投げた。

規則正しい、微かな寝息。

かつての自分がいた眩い光の世界――「南斗派」には、もう二度と戻ることはできない。

しかし、この冷たい洞窟で、毒に蝕まれ、地に堕ちた今の自分を「浩然様」と呼び、慕ってくれる者がここにいる。

彼は濡れた瞳のまま、眠る彼女を一度だけ、慈しむように振り返った。


(……すまない、玲玲。私はもう、君が憧れるような「英雄」ではいられない。だが、この命が尽きるその刹那まで。君の隣にいる男は、私だけでありたいと……願ってしまうのだ)


浩然は再び天を仰いだ。その表情からは先ほどの絶望が消え、ただ一人の少女を守り抜くという、静かな覚悟が宿っていた。

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