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星漢共鳴曲  作者: ふじま
第4章
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第41話 命を紡ぐ五本目の弦

洞窟の奥、浩然ハオランがおこした焚き火の爆ぜる音が、静寂に低く響いている。赤く照らされた壁面には、長い年月を経て掠れた、古い墨跡のようなものが残されていた。


「……何か書いてあるようだが、風化が激しいな。玲玲、あまり近づくとすすが目に染みる。下がっていなさい」


浩然が注意を促すが、玲玲リンリンは吸い寄せられるようにその壁の前に立った。

視覚情報を形として捉えることが苦手な彼女にとって、壁に並ぶ黒い染みは、意味を持つ「文字」としては機能しない。本来ならば、ただの不規則な線の集まりにしか見えないはずだった。

しかし、玲玲はその線をなぞる代わりに、そっと瞼を閉じた。


(……この線の跳ね方、止まり方。どこかで……)


閉ざされた闇の向こうで、幼い日の記憶が鮮明に蘇る。


「母様みたいな音で弾きたいのに、上手くできないの」


ぐずぐずと鼻を鳴らす幼い玲玲に、母は慈しむように寄り添ってくれた。


「玲玲は耳が良いぶん、目で見て覚えるのは少し苦手なのね。母様も同じだから、気持ちはよくわかるわ」


母の静麗ジンリーは、独特な記号を書き連ね、琵琶を弾く際の「身体の運び」を教えてくれた。


「この記号のときは、こう動くのよ」


記憶の中の母が、麗弦リーシェンを奏でる。

その手首の返し。弦を弾いた直後、指先が空中に描く鋭い弧。そして、衣が擦れる微かな残響までもが、今、目の前の墨跡と重なり合う。


「……浩然様。これ、文字ではありませんわ。母様の『琵琶を弾くときの動き』です」

「動き、だと?」


浩然が怪訝そうに聞き返した。


「ええ。母様が琵琶を弾くとき、楽譜にこのような記号を書き留めておられたのです。この墨跡の払いや掠れ……まさしく母様が教えてくれたあの所作ですわ」


玲玲にとって、母の筆跡は「読むもの」ではなかった。それは聴覚と触覚が一体となった「動きの記憶」だ。

天才的な聴力を持つ彼女は、母の演奏を音階としてだけではなく、衣の擦れる音や爪が弦を打つ拍子、その時の風の動きまで完璧に記憶していた。

彼女の瞳には、壁の墨跡がまるで、母が弦を操る際の気品に満ちた運指うんしをそのまま写し取った、生きた軌跡のように見えていたのだ。


「浩然様、ここを見てください。この複雑な線の絡み合い……。これは北斗派の現存する琴譜きんぷには存在しない指使いです。……そうよ、叔父上が仰っていた『失われた至宝』とは、この秘密の譜面のことだったんだわ!」


文字を解読するのではなく、壁に残された墨跡から母の「演奏の癖」を、あるいはその魂を直接感じ取った玲玲。


浩然は松明の火をかざし、その跡を凝視した。常人にはただの汚れや掠れにしか見えない断片から、亡き母の旋律を鮮やかに拾い上げた少女。彼女の驚異的な感覚に、浩然は底知れぬ戦慄を覚えていた。


「……なるほど。玲玲にしか読み解けない、音の暗号というわけだ」


外では依然として激しい雨が降っていたが、洞窟の中には、十二年の時を超えて母と娘が共鳴する、静かな旋律が流れ始めていた。



「母様はここで……かつて失われた『至宝の旋律』を復元しようとしていたのね」


壁に刻まれていたのは、あまりに驚くべき真実だった。


「至宝の旋律……司命宗しめいしゅうの『星漢共鳴曲せいかんきょうめいきょく』か。名前だけは聞いたことがある」


浩然が独り言ちる。

北斗の剛毅な武功と、南斗の変幻自在な武功。相反する二つの力を共鳴させ、最大化する。かつて司命宗が二つの門派に分かたれた際、その秘訣と共に失われたはずの伝説の旋律だ。 


「私が母様から教わった琴譜の一節が、随所に記されています。……母様は、分かたれたはずの二つの流れを、独りで繋ぎ合わせようとしていたんだわ」


「北斗と南斗の共鳴。それが完成すれば、門派の勢力図を根底から覆すほどの力になるだろう。北斗派の宗主がこれを『至宝』と呼び、執着した理由がようやく分かった」


浩然の言葉に、玲玲は深く頷いた。

しかし、壁のさらに奥、石肌に直接刻みつけられた一文を目にした途端、彼女は凍りついた。

そこには、沈静麗シェン・ジンリーの遺した、不吉な警告が記されていたのだ。


『――この楽譜を完成させる者は、愛する者との別れを経験する』


「愛する者との……別れ?」


玲玲の声が小さく震えた。二つの力を一つに結ぶ至高の旋律は、引き換えに奏者の最も大切なえにしを断ち切るという。


玲玲は無意識に、浩然の衣の袖を強く掴んでいた。

なぜ母はこの楽譜を未完成のまま隠し、自分には「音」としてだけ遺したのか。娘にだけはこの呪われた運命を歩ませたくなかったのだろうか。 


「……玲玲」 


浩然は、彼女の怯えを拭い去るように、冷えたその手を包み込んだ。


「予言など、所詮は過ぎ去った誰かの言葉に過ぎない」


浩然はいつものように穏やかに微笑んだ。

だが、その瞳の奥には、自らの身体を蝕む毒と、この「別れ」の予言を天秤にかけるような、暗く深い影が差し込んでいた。

洞窟の外では、二人の行く末を表すように雨がいっそう激しさを増している。



石室に漂う湿った冷気が、ついに浩然の限界を静かに超えさせていた。 


「……浩然様? どうかされましたか」


玲玲の声が、ひどく遠く感じられた。

浩然は自分の手のひらを見つめようとしたが、視界は粘りつくような漆黒に飲み込まれていく。積年の奇毒、そして急激な体温の低下。それらが重なり、彼の神経を一時的に焼き切ったのだ。


「……困ったな。どうやら少し、欲張りすぎたようだ。玲玲……すまない。私の目が、今は役に立ちそうにない」

「そんな……! 浩然様、しっかりしてください!」


玲玲は青ざめ、彼の身体を必死に支えた。触れた浩然の肌は冷たく、浅い呼吸を繰り返している。


彼を救う道は、ただ一つ。

自らの琵琶で旋律を紡ぎ、彼の内力を活性化させることで、内側から体温を取り戻させるしかない。

玲玲は必死の思いで麗弦を引き寄せ、ばちを構えた。

だが、焦りが指先を狂わせた。寒さで強張った弦に無理な力がかかり、鋭い音が洞窟に響き渡った。


――パチン、と乾いた音が石室に虚しく響いた。


「ああっ、麗弦の弦が……!」 


暗闇の中、玲玲の絶望した声が反響する。母の形見であり、浩然を癒やす唯一の手段であった琵琶の弦が、無残にも一本弾け飛んだのだ。


視力を失い倒れ伏す守護者と、彼を救う術を失った奏者。絶望的な沈黙が二人を飲み込もうとしたその時、浩然が手探りで玲玲の震える手を探し当て、力強く握りしめた。 


「玲玲、泣くな。少し休めば大丈夫だ」

「いいえ、浩然様。あなたの命の火が消えかかっているかもしれません。やはり琵琶を弾かなければ……でも、麗弦がこれでは……」


浩然は玲玲の背後に回り込むと、その冷え切った手を琵琶の胴へと添えさせた。激痛に顔を歪めながらも彼が残された力を振り絞る。指先から放ったのは純粋なる「気」の糸だ。それは目には見えずとも鋼より強く、霊的な光を帯びた「五本目の弦」となって麗弦に張り渡された。


「浩然様の……内気が、弦に……?」

「さあ、奏でてくれ。君の音に、私の命を預ける」


玲玲がその「見えない弦」に指をかけた瞬間、洞窟の中に未知の衝撃が走った。

武術の極致である「気」と、音楽の魂である「旋律」。分かたれていた二つの力が、玲玲と浩然の身体を媒体として、今この瞬間に合一したのだ。


玲玲が弦を弾けば、浩然の体内の内力が呼応して爆ぜ、洞窟全体が黄金の共鳴音で震える。旋律は浩然自身の気を循環させ、彼の凍てついた身体を内側から熱く燃え上がらせていく。それは単なる音楽ではない。生命そのものを呼び覚ます、武の波動であった。


この時、二人はまだ知らなかった。

この暗闇の中での絶望的な試みが、やがて世界の運命を決する『星漢共鳴曲』へと繋がる、最初の一歩であったことを。

外では雨が止み始め、雲間から一筋の月光が、静かに洞窟の入り口を照らし出していた。



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