第40話 脳を狂わせる猛毒
狭く湿った横穴を這うようにして進むと、不意に視界が開けた。
そこは岩肌が半球状に大きく窪んだ、まるで天然の石室を思わせる広い空間だった。
二人が歩んできた道のほかにも、底知れぬ闇の奥へと続く横穴がいくつも、ぽっかりと黒い口を開けている。
「まあ……こんな場所があるなんて。浩然様、どれかの穴は外に通じているかもしれませんわ」
玲玲が希望を見出すように呟く。
しかし、浩然は無理に先を急ごうとはしなかった。
まずはこの冷え切った身体を立て直さなければ、探索どころか命が危ういことを知っていたからだ。
「ああ、きっとそうだろう。星宇殿たちならあの程度の窮地、難なく切り抜けているはずだ。我々は焦らず、まずはここで雨が止むのを待とう」
浩然は玲玲を安心させるように優しく微笑んだ。
だが、その微笑みの裏で、彼の身体は一刻の猶予も置かずに動き始めていた。その動作には、無駄な迷いが一切ない。
(入口からの隙間風を塞ぎ、低体温を防がねば。この濡れ鼠の状態では、夜を越すことすら危うい……)
幸いなことに、石室の隅には風や小動物が運び込んだのであろう乾いた枯れ枝や落ち葉が溜まっていた。浩然は脇腹の痛みを表情に出さず、素早くそれらをかき集める。
「玲玲こらちへ。火を熾す。まずはその衣を乾かした方がいい」
カチリ、と火打石が音を立てる。
手早く火を起こし、風向きを読み、周囲の警戒を怠らない。生存のための最適解を次々と叩き出すその姿は、およそしがない薬売りとは思えぬほどに研ぎ澄まされている。
一方、玲玲の脳内は、別の意味で嵐のような興奮に包まれていた。
(……こ、これこそが……禁断の『雨宿り・洞窟・二人きり』の三連発! 傑作選『江南恋物語』の第三章にもあったわ!
恋物語なら、ここから濡れた衣を脱ぎ捨て、凍える肌を背中合わせで温め合うのが「お約束」の展開よね!? さあ浩然様、いつ『脱げ』と仰るの? 私はもう、心の準備も、羞恥の準備も、万端ですわよ!)
玲玲は期待に胸を膨らませ、頬を赤らめてその瞬間を待った。
しかし、浩然は玲玲の顔を覗き込むと、至極真面目な面持ちで薬箱を開いた。中から自身の替えの外衣を取り出すと、凍える彼女に手渡す。
「玲玲、かなり体が冷えているだろう。私の上着を貸すから、君は一番奥の火に近い場所で、服を乾かしながら丸まって休むといい。私はその間に横穴のひとつを見てくる」
浩然は君子のような慈愛に満ちた瞳で続けた。
「……安心しろ、決してこちらを見たりはしない」
そう言い残すと、彼は非の打ち所のない「完璧な守護者」のまま、雨の滴る入り口付近へと去っていった。
残された玲玲は、数秒の静寂の後、やり場のない情熱を拳に込め、洞窟の岩壁を激しく叩いた。
(お、お人好しが過ぎるわよーーーっ!! 乙女の覚悟をこれほどこれほど無神経に踏みにじる朴念仁なんて、どの話にも載っていなかったわ! この……この、壊滅的に空気の読めないお節介焼きーーーっ!!)
洞窟に空しく響く打撃音など露知らず、外では浩然が「やはり玲玲は怯えているな、もっと警戒を厳重にせねば」と、さらに気を引き締めているのであった。
◇
横穴のひとつは、確かに外へと通じていた。
しかし、辿り着いたその出口は切り立った絶壁の中ほどに位置しており、そこから外の世界へ踏み出すことは到底不可能に思えた。
眼下には巨大な滝が白く泡立ち、その轟音は降り続く激しい雨の音さえも容易く掻き消している。
浩然は滝の飛沫に濡れながら、陰から慎重に上下の断崖を確認し、周囲の景色を窺った。これほどの難所だ、刺客といえどもここまで追ってくる気配はない。ひとまずの安全を確信した彼は、重い足取りで再び洞窟の奥へと引き返す。
ひとまず窮地を脱したと悟った瞬間、浩然は壁に背を預け、崩れるように膝をついた。
無理な逃走が祟り、濡れそぼった衣の下には、あちこちに鋭い切り傷が刻まれている。雨水に洗われ続けたその傷口は、白くふやけ、絶え間なく薄い赤を滲ませていた。特に脇腹と、肩から背中にかけての傷は深い。
浩然は再び石室へと戻り、玲玲の元へ歩み寄った。
「追手の気配はない。だが、この先の横穴は絶壁に繋がっていて、外へ出るのは不可能だ。大雨も止みそうにない……しばらくは、ここで過ごすしかない⋯⋯」
努めて冷静に報告を終えた浩然だったが、玲玲の姿を視界に捉えた瞬間、言葉が喉に張り付いた。
彼女は貸し出された外衣を羽織り、火の傍で服を乾かしていた。
大柄な浩然の衣は、華奢な玲玲には大きすぎる。余った袖から覗く指先や、膝下まで隠してなお余りある裾の丈が、彼女の存在をいつも以上に小さく、そして守るべき弱々しいものに見せていた。
なにより、衣の襟元から覗く白い首筋や、火に照らされて火照った彼女の頬が、自らの衣に包まれているという事実。自分の体温と、薬草の香りが染み付いた布地が、今まさに彼女の肌に触れている――。
(……いけない。何を考えているのだ、私は)
ふいにあるまじき想像が脳裏をよぎり、浩然は慌てて視線を逸らした。常に冷静沈着を自負していたはずの彼だったが、今はただ、爆ぜる火の粉の音さえも、自らの早まる鼓動のように聞こえて仕方がない。
浩然は玲玲から距離を置くように背を向けると、自身の傷の手当てに取り掛かった。だが、左肩から背中にかけて刻まれた深い切り傷はあまりに位置が悪く、逃走の疲労で感覚の狂った手では、どうしても薬を塗る指先が届かない。
傷口が疼き、浩然の額に冷や汗が滲む。
「……浩然様、無理をなさらないで。私にやらせてください」
背後から響いた玲玲の細く、けれど決然とした声。彼女の手が、迷いなく浩然の手から薬瓶を取り上げた。
浩然は一瞬、彼女を遠ざけようと拒絶の言葉を口にしかけたが、焼けるような痛みに抗えず、小さく息を吐いて背中を預けた。
「……すまない、玲玲。では、頼む」
浩然は覚悟を決めたように、上衣を左肩から滑り落とした。火の粉が爆ぜる音だけが響く静寂の中、彼は硬く目を閉じる。
露わになった逞しい背中には、いくつもの凄惨な傷跡が走っている。その傷の深さに息を呑む玲玲の気配を感じ、浩然は己の鼓動が不自然に早まるのを自覚した。
視界が閉ざされている分、背後に座る玲玲の衣の擦れる音や、彼女の緊張した呼吸が、恐ろしいほど鮮明に伝わってくる。
やがて、ひんやりとした薬の感触と共に、玲玲の指先が浩然の肌に触れた。
(……っ!?)
浩然の背筋に、電撃のような衝撃が走った。
これまで幾度となく、自分自身や他人の肌に触れてきた。皮下を走る血管も、筋肉の付き方も、彼は知り尽くしているはずだった。
だが、傷口の周囲を優しくなぞる玲玲の指先は、彼が知るどの治療行為とも違っていた。
「痛みますか……? なるべく、優しく塗りますからね」
玲玲が傷口にふう、と小さく息を吹きかける。その吐息が濡れた肌を掠めるたび、浩然の理性は猛烈な勢いで削り取られていった。
彼女の指は驚くほど細く、柔らかい。その一撫でごとに、浩然の体内の内気が、制御を失って暴れ出しそうになる。
(いけない……。これは治療だ。彼女は、私を助けようとしてくれているだけだ。……なのに、なぜ心臓がこれほどまでに騒ぐのだ)
浩然の端正な顔が、火照るように赤く染まっていく。
背中に触れる、彼女の手のひらの柔らかな熱。
傷口を拭う際、力を込める拍子に玲玲の体が微かに寄りかかってくる。
その確かな重みと体温が、「命短き身」として封じ込めてきた彼の、男としての本能を無慈悲に揺さぶり起こしていく。
「浩然様、背中がすごく熱いわ。やはり、熱があるのでは……?」
案じるあまり、玲玲はさらに身を乗り出した。彼女は薬を塗る手を止めると、確かめるようにその掌を彼の首筋へとそっと添える。
(……いけない)
首筋に触れる冷たい指先の心地よさが、かえって浩然の脳裏に、先ほどのぶかぶかな衣に身を包んだ彼女の無防備な姿を鮮烈に蘇らせた。自分の香りに包まれ、小さく丸まっていたあの姿が、今の密着した距離感と重なり、頭の中を真っ白に染め上げる。
「……っ、玲玲! もう、大丈夫だ!」
浩然は弾かれたように彼女の手を振り払い、肩を震わせながら半ば強引に衣を羽織り直した。
浩然は逃げるように身を翻し、赤くなった顔を伏せたまま、震える手で衣を掻き合わせた。
「……え? でも、まだ半分も塗って……」
「あとは……自分でできる。これ以上は、私の『薬師としての修行』が足りなくなりそうだ」
浩然の声は、これまでにないほど掠れていた。
普段ならどんな治療にも動じない彼が、ただの「指先の感触」に、これほどまで無様に翻弄されている。
「修行……? 浩然様、本当に変ですわ。もしかして刺客の毒のせいで頭が……」
「……ああ、毒のせいだ。間違いなく、私の脳を狂わせる猛毒のせいだとも」
浩然は膝を抱え、荒い呼吸を整えるのに必死だった。
もし今、月明かりの下で玲玲の無防備な顔を直視してしまえば、ここまで保ってきた「善良な兄貴分」の仮面が、音を立てて崩れ落ちてしまう。
その確信こそが、今の浩然にとって、奇毒よりも恐ろしい「毒」であった。




