第39話 滅びし名家の地、深淵の二人
浩然と鳳嵐の傷が癒え、旅を続けられるほどに回復した頃。
一行は水路を伝い、霊霄府から金陵府へと入った。
金陵府は江南の名家が誇る壮麗な邸宅と、歴史ある古い寺院が建ち並ぶ、陽光と水の煌めきに満ちた街であった。
しかし、一行が目指したのはその華やかな中心地ではなく、金陵府の端に位置する、深い緑に飲み込まれたような場所。
断崖絶壁にせり出すように建つ、苔むした古刹――。
そこは玲玲と星宇の亡き母、沈静麗の実家である沈家ゆかりの地であった。
かつて江湖の桃源郷と呼ばれた名家が、なぜ一夜にして滅亡してしまったのか。その謎は二十年近く経った今も分かっていない。
「麗弦、もしくは琴譜の手がかりが何かつかめるかもしれない……。母様に縁のある場所なら、きっと」
玲玲が期待と不安の入り混じった瞳で門を見上げる。
浩然は、そんな彼女の背中にそっと寄り添うように立ち、静かに周囲の気配を伺っていた。
しかし、静寂を守るべき古刹の空気は、不吉な殺気によって切り裂かれる。
「また黒衣の刺客か。……まあ今回は予想してたけど」
星宇が扇を広げ、不敵な笑みを浮かべた。
目の前には、これまでの刺客とは格が違う、圧倒的な威圧感を放つ者が待ち構えていた。男は不気味な仮面の奥から、低い声を響かせる。
「――我は『十二宮』が一人。紫微の天命を授かりし者。塵芥どもめ、帝王の星の導きを知るがいい」
「ここは星と私に任せろ!」
烈華が叫び、背負った断鉄を豪快に引き抜いた。
しかし、対峙する刺客の放つ鋭い殺気は、これまで出会った者たちとは比較にならない。その千変万化の攻めに、剛勇を誇る烈華の大刀さえもが、わずかに後手に回らされている。
「くっ……こいつ、速い……!」
烈華の守りが一瞬、強引にこじ開けられた。刺客の冷たい刃が彼女の喉元へ肉薄する。
「烈華!」
星宇の鋭い叫びが響き渡る。
玲玲と浩然を安全な場所へ避難させようとしていた鳳嵐の足が、その刹那、ピタリと止まった。
烈華の危機という、戦況の決定的な歪みを察した彼は、迷うことなく白銀の剣を抜き放つ。
鳳嵐は隣の浩然に鋭い一瞥を送ると、言葉短く言い捨てた。
「……玲玲殿を頼む!」
返事も待たず、鳳嵐は突風のごとく戦地へと飛び込み、刺客の刃を間一髪で弾き飛ばした。
古刹の静寂は、金属同士が激突する耳を刺すような衝撃音にかき消される。烈華の断鉄が重く響き、星宇は変幻自在な攻めを繰り返し、鳳嵐の白銀の剣が目にも止まらぬ速さで刺客の隙を突く。
しかし相手は三人がかりでようやく均衡を保てるほどの強敵。一瞬の油断が死に直結する極限の死闘が繰り広げられる。
激しい剣風が吹き荒れる中、浩然は玲玲の前に立ち、その華奢な肩を包み込むようにして深く息を吸った。
「玲玲、こちらへ!……決して、離れないよう」
努めて穏やかに響かせた声とは裏腹に、その瞳は冷徹なまでに澄み渡っていた。それは、どんな手段を使っても大切な者を守るという、一人の男の苛烈なまでの決意そのものであった。
烈華の放った重厚な一撃が、ついに刺客の防御を叩き割った。断たれた鋼の破片と共に、刺客が鮮血を撒き散らして地面に沈む。
勝負が決したかに見えたその瞬間、辺りの空気が凍りついた。
「玲玲、危ない!」
浩然の声が響く。それと同時に、浩然の肩に刃が届く。
夜の闇を裂くようにして、新たな刺客が音もなく飛来したのだ。二人の行く手を阻むように着地したその刃は、無防備な玲玲と、浩然を鋭く見据えていた。
古刹を震わせる凄まじい衝撃波と、崩れ落ちる回廊の土煙。刺客の放つ一撃が石畳を砕き、一行の連携を無慈悲に引き裂いた。
「玲玲! 浩然!」
星宇の叫びが遠ざかっていく。新手の刺客の執拗な追撃をかわしながら、浩然は玲玲の手を強く引き、断崖の縁へと追い詰められていた。
刺客の放った暗器が浩然の脇腹を切り裂く。
「っ……!」
「浩然様、あちらに道が……っ!」
玲玲が指さしたその瞬間、天を割るような雷鳴とともに、視界を白く遮るほどの豪雨が吹き荒れた。
金陵の街を潤すはずの恵みの雨は、今や二人の逃亡を阻む容赦なき壁となって叩きつける。
遥か彼方から聞こえる星宇たちの叫び声も、激しい雨音に完全に掻き消されてしまった。足元をすくわれた二人の身体は、なす術もなく斜面を滑り落ちていく。
背後から迫る刺客の気配。
浩然は荒い呼吸を殺し、玲玲を抱えるようにして生い茂る草むらを掻き分けていた。
様々な音を雨音がかき消す中、二人は断崖の陰に潜む、小さな穴へと滑り込む。そこは辛うじて身を隠せるほどの隙間に見えたが、一歩足を踏み入れた途端、濡れた岩肌が牙を剥いた。
「危ない——!」
浩然が叫び、咄嗟に彼女の身体を抱きしめる。直後、二人の身体は深い縦穴の斜面を滑り落ちていった。
襲いかかる衝撃に備えて浩然が玲玲を強く抱きしめた直後、二人の身体は平らな岩盤の上へと激しく投げ出された。
「はぁ、はぁ……。玲玲、怪我はないか?」
外界の荒れ模様が嘘のような静けさの中、雨音だけがかすかな残響となって、遥か遠くで小さく響いていた。
冷たい雨に打たれ、体の芯まで冷え切ってしまった玲玲の身体は、暗闇の中で小刻みに震えている。
「私は大丈夫です……。浩然様こそ、お加減は?」
「問題ない」
二人は痛む身体を起こして頭上を見上げる。先ほど入った穴が淡い光を放って口を開けていたが、それは遥か頭上で白く霞んでいた。
「……光が、あんなに遠い」
玲玲が呆然と呟く。外の光がうっすらと届くため、周囲の岩壁は見えているが、湿り気を帯びた絶壁を素手で登り切るのは、武芸に長けた者でも不可能に思えた。
「上へ戻るのは……難しそうだな」
浩然は鋭い痛みが走る脇腹を片手で押さえる。もう一方の手で、懐から火打石を取り出した。
火を灯して暗闇の奥を照らせば、そこには地底へと続く細い横穴が、蛇の這った跡のように伸びている。
「ここを降るしかなさそうだ。この道が、どこか外へと繋がっているかもしれない」
二人は出口を求め、光の届かぬ洞窟の深淵へと一歩を踏み出した。




