第38話 静寂を恐れる者、明日を乞う者
水面に反射する月光が、酒杯の中で揺れている。
鳳嵐と烈華が次の作戦を練り、玲玲が浩然の体調を案じて甲斐甲斐しく世話を焼く中、星宇は一人、屋根の上で夜風に吹かれていた。
「……しけた面すんな、星」
いつの間にか背後に立っていた烈華が、無造作に酒瓶を置いた。
星宇は一瞬だけ、誰にも見せない虚無を瞳に宿していたが、次の瞬間には、いつもの軽薄な笑みを顔に張り付けて振り返った。
「おっと、烈華ちゃん。私の美貌を独り占めしに来たのかい?」
「……お前のその顔は見飽きている」
烈華は隣に腰を下ろすと、遠くでかすかに聴こえる浩然と玲玲の笑い合う声に耳をすませる。
「長老たちが見たら、また嘆くだろうな。『不動の柱』と呼ばれた先代の跡継ぎが、屋根の上で月見とはな、と」
星宇の指先が、一瞬だけぴくりと酒杯を握りしめる。
星宇の父は、北斗派の前宗主である趙恒星。若くして門派をまとめ上げ、誰からも慕われた非の打ち所のない好青年だった。
だが、星宇は十歳の時、その偉大な父と優しい母を同時に失った。
残されたのは、本家筋唯一の跡継ぎという重圧と、「父のようになれ」という周囲の呪縛にも似た期待。
叔父である現宗主・皓月だけは、沈黙を守る星宇を穏やかに見守ってくれたが、周囲の長老たちは容赦がなかった。
『先代様が存命であれば、今の北斗派は……』
『なぜ、あの御方の息子がこれほどまでに……』
比較され、失望される日々。息の詰まるような「正解」を求められる家の中で、彼はあえて道化の道を選んだ。
「……あんな窮屈な『正論』の中にいたら、私の繊細な心は枯れちゃうよ。父上は凄すぎたんだ。私はね、あんな完璧な人間にはなれないし、なるつもりもない」
星宇はわざとらしく肩をすくめたが、その目は妹に対する慈愛に満ちていた。
彼が派手な着物を纏い、不真面目な言動を繰り返す理由。それは期待への反抗であると同時に、あの日、父と母を失い、静まり返った家の中で一人震えていた「静寂」への恐怖の裏返しでもあった。
(……あんな静かすぎる場所は、もうたくさんだ)
自分を「偉大な前宗主の代わり」としてしか見ない周囲の中で、玲玲だけは彼をただの「兄様」として慕い、笑ってくれた。玲玲が笑うたび、星宇の胸の奥にある冷たい沈黙が、少しずつ溶けていくような気がしていた。
「玲玲にはさ……いつも、騒がしいくらいの笑い声の中にいてほしいんだよ。あの子の周りから音が消えるのは、私が許さない。あの子まで、あの冷え切った家の記憶に閉じ込めたくないんだ」
独り言のように呟かれたその言葉は、いつもの浮ついた調子ではなかった。それは、最愛の妹へ、そして亡き両親へと捧げる、彼なりの決死の祈りだった。
「……ふん。なら、その薄ら笑いを絶やすな。お前が黙ると、気味が悪い」
烈華はそれだけ言うと、立ち上がって去っていった。
「手厳しいねぇ、全く。……でも、ま、私にしかできない役回りってのもあるか」
星宇は再び扇を広げ、華やかな装いの裏に、誰にも見せない孤独を隠した。
階下からは、浩然の頓珍漢な物言いに玲玲が吹き出す声が聞こえてくる。
「偉大な父」にはなれなくても、この「明るい音」を守るための盾になら、きっとなれる。星宇は独りごちて、冷えた酒を喉に流し込んだ。
◇
「やあ浩然。また玲玲の小言を食らったのか? 心から同情するよ、兄の代わりをやるのも楽じゃないだろ?」
浩然の部屋の扉を軽やかに開け、星宇がひょいと顔を出した。その後ろには、呆れた顔の烈華が腕を組んで立っている。
「いえ、星宇殿。玲玲に叱られるのも案外悪くないですよ。なんだか、本当の家族ができたみたいで」
浩然は、少し照れくさそうに笑いながら答えた。だが、その言葉が口を突いて出た瞬間、胸の奥がチリりと焼けるような感覚に襲われた。
家族。それは今の自分にとって、もっとも都合の良い「仮面」に過ぎない。
「へぇ〜、『家族』ねぇ。……烈華、聞いたか? こいつ確信犯だぞ」
「……全くだ。天然なのか計算なのか、一番性質が悪い」
烈華が鼻で笑い、星宇は面白そうに浩然を突っついた。
その時、薬湯を準備した玲玲が戻ってくる。
「もう、兄様たち。浩然様はお身体が優れないのですから、静かにしてあげてください」
玲玲はぷうっと頬を膨らませて浩然の隣に座ると、甲斐甲斐しく茶を淹れ始めた。
宿の窓の外からは、いつしか夜市の賑やかな喧騒が紛れ込んできていた。祭りの灯りが夜空を淡く染め、遠くで響く笛の音が、先ほどまでの重苦しい空気を優しく解きほぐしていくようだ。
「お祭り楽しそうですね。今回は残念でしたが……浩然様と鳳嵐様の傷が癒えたら、今度こそみんなでお祭りに行きましょう。来月も各地で大きな夜市があるそうですから」
当たり前のように、明日があり、来月があり、そこに浩然がいる未来。
「みんなで」という玲玲の言葉の中に、自分の居場所がごく自然に用意されていることに、浩然の胸が締め付けられた。
(……家族、か)
浩然は、湯気の向こうで微笑む玲玲の横顔を盗み見た。
兄として彼女を慈しむ。そんな嘘で自分を誤魔化せる段階は、もうとうに過ぎていた。
星宇の軽口に同調して笑う裏側で、浩然の心臓は猛烈な勢いで警鐘を鳴らしている。
兄として家族になりたいのではない。
この髪に触れたい。この手を取り、誰にも渡したくない。兄としてではなく、一人の男として、彼女の隣で一生を終えたい――。
(生きたい。……死にたくない。彼女を、一人にしたくない)
これまで、己の命を「いつ果てても構わない塵」のように考えていた諦念が崩れ去る。一滴の慈雨が渇いた大地に染み込むように、玲玲への執着が、どろりとした熱を持って彼の中で膨れ上がった。
だが、その直後。
身体の深部を走る、鋭い鈍痛が彼を現実に引き戻した。
(……だが、どうやって?)
浩然は、膝の上で自分の青白い手を見つめた。
南斗派のあらゆる秘薬を尽くし、江湖を渡り歩いてあらゆる医術を試しても、この毒を抜く方法は見つからなかった。自分の命の灯火が、あとどれほど残っているか、薬師である彼が一番よく理解している。
(解毒の方法を探さなくては。命が尽きる前に、何としても。……けれど、本当にそんな奇跡が起きるのか? 私はただ、無謀な夢を見て、最後には彼女をより深く傷つけるだけではないのか……)
自分の知識への不信、そして運命への怯え。
「生きたい」という強烈な欲望が芽生えた分だけ、それが叶わぬかもしれないという恐怖が、冷たい毒となって彼の心を侵食していく。
「浩然様? どうかなさったの?」
玲玲が不安げに覗き込んでくる。浩然は、溢れ出しそうな愛しさと絶望を飲み込み、いつもの「お人好しの薬売り」の微笑みを、なんとか顔に張り付けた。
「……いや。祭りの屋台では、何を食べようかと考えていただけだ」
その言葉は、彼が自分自身にかけた、あまりにも哀しい呪文のようだった。
◇
星宇と烈華は、活気あふれる夜市へと繰り出した。
貴公子然とした装いの星宇に合わせるように、烈華は普段の男勝りな衣服を脱ぎ、酒屋の女将から借りたという、肩の線が覗く柔らかな生地の服に身を包んでいた。それは沈んでいた星宇を元気づけようとする不器用な献身だった。
しかし、星宇の反応は彼女の予想とは正反対だった。
「……烈華。その服は、一体どうしたんだい?」
「酒屋の女将が貸してくれた。似合わないか?」
無防備に首を傾げる烈華には、女性らしい艶やかな色香が漂っていた。すれ違う男たちの視線が彼女へ突き刺さるのを感じた瞬間、星宇の機嫌は目に見えて急降下する。
結局、彼は夜市の喧騒を早々に切り上げ、隠れ家へと引き返してしまった。
その後、烈華の部屋で二人、飲み直していた時のことだ。
星宇がいつものように扇子をパタパタと動かし、「君はもう少し、女としての自覚を……」と説教じみた軽口で照れ隠しをしようとした、その瞬間。
「自覚、か。……ならば星、これならどうだ?」
烈華がぐいと距離を詰め、星宇の胸元に手を置いて彼を壁際まで押しやった。
至近距離で覗き込でくる、吸い込まれそうな瞳。頬に影を落とす長いまつげ、ほんのり色づく唇。武芸者らしいしなやかな指先と、酒の熱で上気した肌から立ち上る香り。全てが、星宇の理性を無慈悲に揺さぶる。
「お、おい、烈華……ここは宿だぞ。冗談がすぎる……」
「冗談ではない。お前が私を女として見ているのは十分分かった。では、私もお前を『男』として見ても良いのだろう?」
そう言って、烈華は星宇の唇のすぐそばに自分の指先を滑らせる。
星宇は言い返そうとするが、喉が鳴り、顔が熱くなるのを止められない。
「……っ、烈華、……本当に、私をどうしたいんだ……!」
余裕をかなぐり捨てた星宇は、顔を真っ赤に染めながらも、逃がさないと言わんばかりの力強い手つきで烈華の腕を掴んだ。
今すぐその挑発的な唇を奪ってしまいたい衝動を、理性が辛うじて食い止める。
「……こんな、……こんな可愛い君を、私以外の誰にも見られたくないんだよ」
星宇は、吐き捨てるような、けれど深い情愛を込めた声でぼそりと呟いた。
その言葉を聞いた瞬間、烈華はふっと目を見開くと、珍しく花のほころぶような、この上なく柔らかな笑みを浮かべた。武芸者としての鋭い気迫は消え、そこにあるのは愛する男を信頼しきった、一人の女性の顔。
「ふふ、ならば誰にも見られぬよう、隠しておけばいいだろう?」
烈華はそう言って、星宇の胸元にそっと頭をすり寄せ、甘えるように顔を埋めた。
そのあまりの可愛らしさに、星宇の理性がついに崩れ去る。彼は観念したように彼女の肩を抱き寄せ、開いたままの扇子を放り投げた。




