第37話 滅びし名家、奇妙な符合
その晩、霧隠れの滝から戻った一行は、隠れ家の一室で「紫微教」という組織について思いを巡らせていた。
「紫微星……。それは北斗七星と南斗六星の中心に位置し、万物を統べる帝王の星と言われている」
鳳嵐が静かに説くと、星宇は火の消えかけた囲炉裏を睨みつけ、苦々しく口を開いた。
「そんな大層な名を冠した組織が、我が北斗派の門を叩き潰し、今も執拗に私たちを追ってきている。……何とも嫌な符合だね。中心の星が、北と南を飲み込もうとしているようで、不愉快極まりない」
「もしその推測が正しいのなら、奴らの牙は北斗だけに向いているわけではないはず。……南斗派もまた、同じように攻撃を受けている可能性がある」
烈華の冷静な指摘に、浩然の眉が微かに動いた。
表向きはいつものように波立たぬ湖のような表情を保っているが、その胸中は激しく波打っていた。霧隠れの滝にいた南斗派の密使は何も言っていなかったが、南斗派の本拠地『翠嵐』は今、無事なのだろうか。
今、彼らの前にある事実はあまりに不気味だった。
「紫微教」という組織が、組織的な刺客を送り込んでいること。その中枢に、人心を惑わす術を心得た道士たちが深く関わっていること。そして何より、各地の純朴な人々が甘い言葉で洗脳され、自らの命を投げ出す「駒」にされていること……。
「……目に見える剣筋なら、受け流せます。しかし、信仰という名の毒で人心を腐らせる敵は、これまでの武林の争いとは次元が違う」
浩然は己の手のひらを見つめ、静かに言葉を絞り出した。
その声には「人の命」を弄ぶ者たちへの、静かだが激しい憤怒が宿っていた。
自害した道士の持ち物を検分していた時だった。
密書の中に記された「沈」という一文字を見つけ、玲玲の手が止まる。
「……沈家。お母様の姓と同じだわ」
密書には『金陵の沈家ゆかりの古刹に向かうべし。何らかの手がかりを見つけ次第、早急に報じよ』と記されていた。
「江南の名家と謳われた、あの沈家でしょうか」
浩然が記憶を辿るように呟くと、鳳嵐が硬い声で応じた。
「だが、沈家は二十年以上も前に、一夜にして滅亡してしまったはずだ」
鳳嵐が不可解そうに首を振ると、浩然が静かに言葉を継いだ。
「沈家は古くから続く名門中の名門。優れた文人や音楽家を数多く輩出してきた、風雅を解する一族であったと聞き及んでいます」
「ああ。朝廷のみならず武林でも絶大な影響力を持っていたようだ。北斗と南斗、その両派から中立を保つ江湖の桃源郷……。彼らこそが、危うい均衡を保つ要だったと言っても過言ではない」
鳳嵐がかつての沈家の威容を偲ぶように語る。
皆がその名門に起きた不可解な悲劇に考え込んでいる中、星宇だけが、その場に縫い付けられたように動かずにいた。
「金陵……沈家……」
「星、どうした」
烈華が異変に気づき声をかける。星宇の顔からはいつもの余裕が消え失せ、その唇は微かに震えていた。彼はしばらく沈黙していたが、重い口を開いた。
「……母は、出自を隠して父と伴侶になった。幼い頃、一度だけ母からその理由を聞かされたことがある。
朝廷とも武林とも深い関わりのあった名門・沈家が、ある夜、何者かによって根絶やしにされたのだと。⋯⋯母はその沈家の娘であり、唯一の生き残りだった」
沈家の血を絶やそうとする正体不明の敵から逃れるため、沈麗蘭は真の名を捨て、北斗派宗主・趙恒星の妻として身を隠したのだ。
「母様の名は沈静麗でしょう!?蒼燕の沈家の娘ではなかったの!?」
初めて明かされる母の壮絶な過去に、玲玲はただ息を呑むことしかできなかった。
自分たちが執拗に狙われていたのは、単に北斗派の血を引くからではない。
二十年前、一夜にして消えたはずの「沈家」への不気味な執着が、今もなお、牙を剥いて自分たちを追ってきている。その恐るべき仮定に、玲玲の背筋を冷たい戦慄が駆け抜けた。
「……次の目的地が決まったな。数日後、我らも金陵府へ出発しよう。その古刹に何があるのか、この目で見極めてやる」
星宇もまた、いつもの軽薄な笑みを完全に消し、静かに頷いた。その瞳には、最愛の妹を守り抜き、母の無念を晴らそうとする、北斗派正統の跡継ぎとしての鋭い光が宿っていた。
◇
玲玲は遠い目をして、静かに母の面影を辿った。
「驚きました、母様にそのような事情があったなんて。私の記憶の中の母は、いつも私と兄の話を穏やかに聞き、よく笑い、優しく見守ってくれる……そんな方でしたから」
「過去にどれほどの悲劇があろうとも、お二人という宝を得て、お母上は確かに幸せだったのだろう。今の玲玲の笑顔が、その何よりの証拠だ」
浩然の言葉に、玲玲は「そうだったら嬉しいわ」と呟くように、切なくも温かい微笑みを浮かべた。
「お母上は、事故で亡くなられたと聞いているが」
「はい。私が五歳の時……今から十二年前のことですわ。両親はある用向きで南方へ向かい、その帰路で不慮の事故に遭ったと。当時は南斗派の陰謀を疑う声も北斗派内ではありましたが、結局は事故として片付けられました」
十二年前。その言葉を聞いた瞬間、浩然の表情に微かな影が差した。
「……奇遇だな。私の母が亡くなったのも、十二年前だ。村を襲った賊と戦い、相打ちになった」
「浩然様の、お母様も……」
浩然の母は、生前多くを語ることはなかった。だが、その身のこなしには隠しきれぬ南斗派の武功の面影があった。
北斗派前宗主の趙恒星。南斗派の門弟であった浩然の母。そして武林において中立を保っていた沈家唯一の生き残りの沈静麗。
門派も立場も異なるはずの三つの家系に関わる者たちが、十二年前という同時期に、不可解な死を遂げている。
(偶然にしては、出来過ぎている。まるで、北と南を繋ぐ楔を一つずつ引き抜いていったかのような……)
その奇妙な共通点は、鋭い棘のように浩然の胸に深く突き刺さった。




