第36話 誰がための泥
浩然の手には、敵の拠点と罠の配置、そして「霧隠れの滝」への合流手順が記された地図が握られていた。
「……浩然様、その地図は?」
玲玲は、牢の中で魂が抜けたように項垂れる刺客の姿を見て、微かに表情を曇らせた。
「なんだか、卑怯なやり方に思えますわ。正々堂々と向き合わず、相手の弱みを握り、恐怖を煽るような真似……。そうやって得た事実に価値があるのかしら」
玲玲の真っ直ぐな言葉が、浩然の胸を刺す。しかし、浩然はいつものように困ったように笑い、静かに首を振った。
「玲玲、すまない。だが、情報に綺麗も汚いもないんだ。君たちの言う『誠実』では救えなかったであろうあの男の家族が、この地図と引き換えに救えるのなら、私は喜んで泥を被るよ。……誰かが汚れないと、守れない光もあるから」
「……浩然」
烈華が低く呟いたが、浩然はそれ以上何も語らず、先に歩き始めた。
玲玲は、浩然の背中が今までになく遠く感じられた。しかし、彼女は見逃さなかった。地図を握る彼の指先が、微かに震えていたことに。
彼は決して非情な人間ではない。仲間の潔白な「光」を守るために、そして救いようのない敵の「家族」という未練を拾い上げるために、自ら進んで「影」に足を踏み入れたのだ。
「……卑怯だと言ったのは、取り消しますわ。……ごめんなさい、浩然様」
玲玲は小走りで浩然の隣に並び、その汚れた袖をぎゅっと掴んだ。
「納得はしていません。でも、浩然様が私たちのために嫌な役目を引き受けてくださったこと……それだけは、分かっていますから」
「玲玲……」
浩然が驚いて立ち止まると、星宇がひょいと肩を組んできた。
「全くだ。浩然、お前があんな怖い顔ができるなんて驚いたぞ。ま、その泥は私たちが後で拭いてやる。だから一人で格好つけるなよ」
「……フン、効率的な手段だったとは認めてやる」
鳳嵐も不器用ながら、浩然が手に入れた地図を厳かに受け取った。
価値観は違えど、目指す先は同じ。一行の絆は、その「違い」を受け入れることで、より深く、より強固なものへと変わっていくのだった。
◇
「期日までに霧隠れの滝へ向かわせるには、一刻も早くあの男を回復させねばなりません」
浩然は速やかに薬を処方し、玲玲に麗弦の演奏を頼んだ。内力を活性化させる彼女の旋律で、衰弱した男の生気を呼び戻すためだ。
仲間たちが男の介抱にかかりきりになった、その一瞬の隙。
浩然は音もなく闇に紛れ、あらかじめ定められた手順のままに、一羽の鳥を夜の帳へと放った。
翠嵐の方角へと力強く羽ばたくその影を見送りながら、彼は苦く呟く。
「……この方法は、なるべく使いたくなかったが」
かつて浩然は、自身の独断が招いた不始末により、猛毒に侵されるという失態を演じた。その際、南斗派には多大な迷惑をかけている。
彼はその負い目から、毒を完全に退けるまでは二度と南斗派の門は叩かないと、心に固く誓っていたのだ。
しかし、先ほどの刺客とその家族を救い、紫微教の闇を暴くには、もはや一個人の力では限界がある。
(私の誓いなど、守るべき命に比べれば塵に等しい。……たとえ、どのような罰を受けることになろうとも)
浩然は一度だけ深く目を閉じると、未練を断ち切るように背を向け、玲玲たちの待つ場所へと戻っていった。
◇
霧隠れの滝は、その名の通り濃い水飛沫が視界を遮る天然の要害だった。
「古い知り合いの薬売りに、彼とその家族のことを頼みます。……薬売りの世界には厳格な掟がありましてね。顔を見られるのを嫌う彼らのために、私一人で行かせてください」
星宇たちが周囲を警戒する中、浩然はもっともらしい理由を添えて、一人で刺客の男を連れて霧の奥へと消えた。そこには、彼の放った伝書鳥に応じた南斗派の密使たちが待ち構えていた。
「……あとは頼みます。彼とその家族の安全を」
浩然の言葉に、南斗の者たちは無言で頷き、刺客を連れて断崖を消えた。
浩然は霧の深淵を見つめて小さく息をつく。これで、あの男と家族の命は繋がるだろう。
一方、滝の手前で待機していた星宇たちの前に、一人の道士が姿を現した。新しい薬を届けに来た紫微教の者だろう。道士は北斗派の面々の姿を見て、即座に踵を返す。
「そこまでだ!」
星宇が鋭い踏み込みで間を詰め、逃げ道を塞ぐ。烈華と鳳嵐も瞬時に包囲し、生け捕りにしようと手を伸ばした。
しかし、道士は恐怖に震えるどころか、不気味な恍惚とした笑みを浮かべる。
「……紫微の光とともに、私は昇天する」
「待て、させるか!」
浩然が霧の中から駆け戻り、制止の声を上げたが、一歩遅かった。道士は奥歯に仕込んだ毒を噛み砕くと、その場に崩れ落ち、一瞬にして事切れたのだ。
「くそ!自害したか。これでは何も聞き出せん」
星宇たちは苦々しく毒の回った死体を見下ろす。浩然は沈んだ表情だ。
「あの男は、薬売りたちが連れていきました。彼とその家族はもう安全でしょう。しかし、この道士の様子を見るに、紫微教の洗脳は我々の想像以上に根深いようです」
浩然は倒れた道士を検分し始めた。
毒を仰いで事切れたはずの道士の顔には、死の苦悶ではなく、ぞっとするほどの歓喜の微笑が張り付いていた。
その異様な死に顔を見つめる浩然の背中に、じっとりと冷たい汗が伝う。剣や拳では決して届かない、人の心を蝕む闇の深さ。
「紫微教……。一体、何が奴らをここまで狂わせるのか……」
霧に煙る滝壺の底のような、底知れぬ不気味さを胸に抱いたまま、一行は重い足取りで隠れ家への帰路につくのだった。




