第35話 戦士たちの休息、紫微の陰謀
その夜、霊霄府の隠れ家。
鳳嵐は上半身に幾重にも包帯を巻かれ、寝台に横たわっていた。
「……鳳嵐様。お水を持ってきました」
玲玲が静かに部屋に入ってくる。彼女の瞳は、自分のために傷ついた鳳嵐への申し訳なさと、深い敬愛で潤んでいた。
玲玲が甲斐甲斐しく濡れた手巾で彼の額を拭う。鳳嵐は気まずそうに視線を泳がせた。
「……無用だと言ったはずだ、玲玲殿。私はただ、北斗派の誇りを守るため、最も損害の少ない道を選んだに過ぎない」
「いいえ。鳳嵐様は、私を助けてくださいました」
玲玲は鳳嵐の傷だらけの手を、両手でそっと包み込んだ。
「計算なんて、どうでもよいのです。あなたが命を懸けて守ってくださったこの命、大切にいたしますわ。……本当に、ありがとうございます」
玲玲の真っ直ぐな言葉と温もりに、鳳嵐の強情な仮面がわずかに崩れた。
彼は何も言えず、ただ黙って天井を見上げたが、その耳元は赤く染まっていた。
隣の部屋から、浩然が鳳嵐のために調合した薬の匂いが立ち込めている。
鳳嵐は心の中で、自分を背負ったあの男の、驚くほど広くて温かい背中を思い出していた。
(……癪だが、あのお節介に、一度だけ礼を言わねばならんかもしれんな)
最強の過保護連合。彼らの絆は、鳳嵐の流した血によって、より一層強固なものへと変わっていた。
隠れ家の庭先で、星宇は月明かりの下、いつものように優雅な手つきで扇子を弄んでいた。
「やれやれ、今回の刺客は少し骨があったね。全く、私の美しい歩法が台無しだ」
軽口を叩き、おどけて見せるその姿は、昼間の失策など微塵も気にしていないように見える。
だが、その瞳の奥には、玲玲を奪われた瞬間の、己の指先が届かなかった焦燥が沈殿していた。
「星宇殿」
背後から声をかけたのは、鳳嵐に煎じ薬を届け終えた浩然だった。
「……星宇殿。たまにはその扇子を置いて、ゆっくり休んだらどうですか」
星宇は扇子をピタリと止め、肩越しに振り返る。
「何だい、浩然。私の優雅な余韻を邪魔するなんて、野暮じゃないか」
「無理に笑わなくても、ここには星宇殿を責める者はいませんよ。……あなたの扇子は、誰よりも多く敵を払い、道を作っていました。それだけは、私が保証します」
浩然の真っ直ぐな、そしてすべてを見透かしたような穏やかな眼差し。
星宇は一瞬だけ呆然としたように目を見開き、やがてふっと「素」の顔を見せた。いつもの派手な笑みを消し、少しだけ疲れた青年の顔だ。
「……お前、本当にお節介だな。……調子が狂う」
星宇は苦笑いしながら、珍しく扇子を腰の帯に差し、天を仰いだ。
浩然が会釈をして部屋へ戻っていくと、入れ替わるようにして、暗闇から重い足音が近づいてくる。
「……ふん。お節介焼きに、図星を突かれたか」
現れたのは、愛剣を背負った烈華だった。彼女は星宇の隣に並び、言葉少なに夜風に当たる。
「烈華ちゃん……。見てたのかい」
「声がでかいんだよ、お前ら。……鳳嵐の傷は深い。玲玲も怯えている。今、この一行を笑わせられるのは、お前の下らん軽口だけだ。……だが」
烈華は視線を向けぬまま、力強い手で星宇の肩を一度だけ、乱暴に叩いた。
「お前が動けなくなれば、私の背中を守る奴がいなくなる。……一人で背負うな。私の断鉄は、敵を斬るためだけにあるんじゃない」
星宇は、烈華の手の熱さを肩に感じながら、小さく吹き出した。
「……手厳しいねぇ。烈華ちゃんにそう言われちゃ、明日からも道化を演じないわけにはいかないか」
「道化ではない。お前は私の……私たちの『目』だ。誇りを持て」
烈華はそれだけ言い残すと、背を向けて去っていった。
星宇は再び扇子を抜き取り、今度は少しだけ軽やかな手つきでそれを開いた。
「……ま、お節介な仲間たちに免じて、少しだけ休ませてもらうかな」
一人残された庭で、星宇は静かに目を閉じる。
北斗派の「盾」である鳳嵐と、最強の「鉾」である烈華。そして、それらを繋ぐ「目」である自分。
バラバラだったはずの一行は、浩然という不思議な薬売りを介して、鋼よりも強固な絆で結ばれつつあった。
◇
先日の戦いで生け捕りにした、からくり人形を操る刺客がようやく目を覚ました。隠れ家の地下、冷たい湿気と死臭が立ち込める牢の前で、星宇たちは情報を聞き出そうと試みる。
「北斗派の誇りに懸けて、不当な拷問はしない。お前の犯した罪を理解しているのなら、改心して全てを話せ」
星宇は毅然とした態度で言葉を投げかけた。正義を説くその高潔な姿に一点の曇りもない。
だが、狂信に近い忠誠を誓う刺客は、ひび割れた唇に嘲笑を浮かべるだけだった。
「お前たちに話すことなど何もない。拷問でも殺しでも好きにするがいい。この肉体という枷から解放されたとき、俺は真の仙人になれるのだから」
「……埒があかないな。北斗の理屈は、こいつらにとっては毒にも薬にもならないようだ」
星宇が重い溜息をついたとき、それまで背後で沈黙していた浩然が、音もなく一歩前へ出た。
「星宇殿。少しだけ、私に任せていただけませんか? 私は武芸が不得手な分、こうした『交渉』には慣れているのです。……少々見苦しいものをお見せするかもしれません。席を外して、見張りをお願いできますか?」
星宇は首を傾げながらも、浩然の柔和な笑顔に押されるようにして地下室を後にした。
扉が閉まり、静寂が訪れると、浩然の表情から温かみが消えた。
彼は懐から金貨を取り出し、刺客の目の前に差し出した。
「さて、取引をしましょう。君の故郷にいる家族……彼らにこの金貨を届け、口封じに狙われないよう保護する手配をしましょうか。それとも……」
浩然は冷徹な手つきで、一見毒々しい色をした薬瓶を転がした。
「私が編み出した『痛覚を千倍にする薬』を試しますか? 私は薬師だ。殺さずに、君が一生後悔するほどの苦痛を与えることなど造作もない」
もちろん、そんな薬は存在しない。だが、浩然の静かな声と、すべてを見透かすような瞳には、狂信者をも震え上がらせる「凄み」があった。
「死ねば仙人になれるそうだな。それは道士から言われたんだろう。」
浩然は紫微星の紋を男に見せる。
男は、浩然が差し出したその印を見た途端、喉の奥でひきつけを起こしたように絶望の声を漏らした。
「……それを、なぜ。貴様らのような俗物に、あの方の崇高な志がわかるはずがない」
「崇高、ですか」
浩然は短く吐き捨てると、薬瓶の蓋を指先で弾き開けた。鼻を突く、刺すような薬草の匂いが牢内に立ち込める。
「君の言う『あの方』は、病に伏せる君の母親にも同じ言葉をかけたのか? 『お前の息子が汚れ仕事をこなせば、母の病は癒え、共に仙界へ昇れる』と」
刺客の瞳が大きく見開かれた。誰にも話していないはずの、故郷に残した事情。
浩然は、男の指先に残る薬草の煤や、衣服に染み付いた特定の地域の土、そして何より、彼が大事そうに握りしめていた「守り袋」の作りから、すべてを看破していた。
「……なぜ、母のことを」
「私は薬師だ。君が握りしめているその守り袋から漂う香りは、病人の苦痛を和らげるための安価な、しかし心のこもった処方だ。
君の衣服はボロボロだが、その袋だけは丁寧に繕われている。それが、君がこの道を選んだ唯一の理由だろう?」
浩然は一歩、男に詰め寄った。その瞳には、憐れみすら混じっている。
「目を覚ましなさい。道士が与えたのは、治癒の薬ではない。……ただの一時的な麻痺剤だ。君がここで命を捨てれば、家族に金が届くことも、病が治ることもない。彼らは『仙人の身内』としてではなく、『用済みの証拠』として始末される」
「嘘だ……! あの方は、約束してくださった!」
「ならば、賭けてみますか? 私の提案した金貨と保護を受けるか、それとも、来ないはずの『お迎え』を待ちながら、私が今から始める『千倍の痛覚』の中で、家族の名を呼び続けて死ぬか」
浩然が冷たく光る針を取り出した瞬間、刺客の精神は音を立てて崩壊した。
彼は泣き崩れながら、すべてを吐き出した。
紫微星の紋を掲げる組織の名は「紫微教」。
彼らの目的は、各地の道観を乗っ取り、「奇跡」を起こして人心を掌握し、南天の各地に強大な支配権を築くことだった。
「……次の合流地点は、霊霄府の北にある『霧隠れの滝』……そこで、新しい薬を授かる手はずになっていた……。頼む、家族だけは……家族だけは助けてくれ……!」
浩然は無言で薬瓶を収め、扉を開けた。
外で待っていた星宇たちは、あまりに早く、そして完全に「折れた」刺客の姿に言葉を失っている。
「浩然……一体、何を」
「少し、話し合いをしただけです。それより星宇殿、急ぎましょう。彼らの家族を保護し、指定の場所へ刺客を差し向ける必要があります」
浩然はいつもの穏やかな微笑みに戻っている。
だが、その背中を見送る星宇の背筋には、拭いきれない戦慄が走っていた。
浩然が使ったのは、毒でも武功でもない。「誰よりも人の心を理解している」という、残酷なまでの洞察力だったのだ。




