第34話 燃える白銀、命懸けの聖域
朝食の席での空気は、昨夜の熱を帯びた沈黙を引きずり、ひどく気まずいものだった。
浩然は一度も玲玲と目を合わせようとせず、玲玲もまた、頬を赤く染めたまま粥の器をじっと見つめている。
その様子を、鳳嵐は苦々しい思いで凝視していた。
彼の視線の先にあるのは、玲玲の凛とした指先だ。粥を運ぶその仕草、背筋を伸ばした気品ある佇まい。鳳嵐は、彼女のその無垢な輝きを知っている。
(魏家の宝物庫には、天下に名だたる珠玉が眠っている。だが……玲玲殿のこの輝きに比べれば、それらすべてはただの石塊に過ぎない)
彼女は、鳳嵐にとって守るべき「聖域」そのものだった。
だが、その聖域に土足で踏み込み、彼女の心をこれほどまでに乱しているのは、目の前で所在なさげに匙を動かしている、あのお節介な薬売りなのだ。
(……浩然。おまえは一体、何者なんだ。命を懸けて彼女を救い、その心までをも容易く奪い去っていく。私には、どんなに策を練っても、彼女のあのような表情を引き出すことはできないというのに……!)
浩然への深い尊敬と、それ以上に膨れ上がる燃えるような嫉妬。
「自分の方が彼女に相応しい環境を用意できる」という傲慢な自負と、「彼女が求めているのは私ではない」という冷酷な現実。その二つが鳳嵐の胸中で激しく衝突し、彼の理性を焼き切ろうとしていた。
鳳嵐の指が、剣の鞘を強く握りしめる。
ミり、と不穏な音が響き、鳳嵐が今にも浩然を問い詰めようと立ち上がろうとした、その時。
「――まあ落ち着け。朝っぱらからそんな殺気を飛ばしてたら、粥が不味くなるぞ」
星宇が鳳嵐の肩にずっしりと腕を回した。
鳳嵐が射殺さんばかりの視線を向けるが、星宇はどこ吹く風で、ひらひらと扇子を揺らしている。
「放せ、星宇殿。私は今……」
「わかってる、わかってるって。お前の『宝物』が、あんな無自覚な天然男に振り回されてるのが我慢ならないんだろ? だがな、鳳嵐。今ここで爆発しても、玲玲が困るだけだ」
耳元で囁かれた星宇の言葉は、鋭い針のように鳳嵐の核心を突いた。
「……っ、私はただ、彼女が……」
「いいから、行こう。霊霄府には美味い酒がある。今日は俺の奢りだ。……な、酒でも飲んで、その高すぎる自尊心を少しばかり中和してこいよ」
星宇は鳳嵐を半ば強引に立たせると、そのまま外へと連れ出した。
鳳嵐は一度だけ、玲玲の横顔を振り返った。その瞳には、やはりまだ、浩然への戸惑いと熱が宿っている。
(……認めよう。私は今、醜い嫉妬に狂っている)
鳳嵐は、星宇に引きずられながらも、自らの心の狭さを自嘲せずにはいられなかった。
朝の光の中で、彼の白銀の鞘が、主人の迷いを映し出すように静かに光っていた。
◇
「――おっと。せっかくの酒宴の前に、無粋な客だねぇ」
屋敷の外、突如として霧の中から現れたのは、からくり人形を操る黒衣の刺客たちだった。
彼らは意志を持たぬ木偶を盾にし、死角から無数の鋼糸を飛ばしてくる。
「鳳嵐、烈華! 玲玲を頼むよ。ここは私が遊んでやろう!」
星宇が不敵に笑い、閉じていた扇を弾くように広げた。
彼の戦い方は、烈華の大刀や鳳嵐の正統な剣術とは一線を画す。
北斗派随一の歩法『星羅万象』。予測不能な足さばきで、残像を置き去りにしながら、星宇は人形の隙間を縫うように踊る。
「そこだ」
扇を翻せば、仕込まれた極薄の暗器が蝶の如く舞い飛び、絡繰を操る鋼糸を次々と断ち切っていく。日頃の軟派な言動とは裏腹に、その一挙手一投足は計算し尽くされた必殺の一撃。星宇が変幻自在の歩法で刺客を翻弄すれば、烈華は大刀を豪快に振るい、木偶を粉砕していく。背中を預け合う二人の呼吸は、寸分の狂いもなく噛み合っていた。
だが、敵の狙いは最初から「分断」だった。
激しい爆煙とともに橋が崩落し、玲玲の姿が刺客の手によって連れ去られようとする。
「玲玲殿……っ!」
鳳嵐は迷わなかった。崩れゆく瓦礫の中、彼は玲玲を抱えた刺客の前に単身飛び込む。
「玲玲殿、私の背後に! 決して離れるな!」
鳳嵐は、四方から放たれる鋼糸をその身で受け止めた。白の衣が血で染まり、深手負いながらも、彼は玲玲を安全な回廊へと押し出す。
「行け! ここは私が食い止める……!」
鳳嵐が死を覚悟したその時、背後から疾風の如き影が飛び込んできた。浩然だ。
浩然は一瞬にして刺客の手を払い、玲玲を奪還すると、崩れ落ちる鳳嵐の体を力強く抱え上げた。
「鳳嵐殿、無茶です! 今すぐ脱出を!」
「……っ、浩然……放せ」
鳳嵐は激痛に顔を歪めながら、浩然の肩に担がれた自分の不甲斐なさに唇を噛んだ。
「……勘違いするな。私がここで死ぬのは、北斗派の次代を繋ぐための『最も効率的な選択』だっただけだ。貴殿が助けに来るなど、計算外の無駄な行動だ……っ」
そう言い捨てながら、鳳嵐は悔しそうに顔を伏せた。
軍師としての自尊心を守ろうと強がるが、その震える指先は、救われた安堵と、恋敵に背負われている屈辱、そして玲玲を守り抜けた喜びで複雑に揺れていた。




