第33話 抱擁の熱、解けゆく影
激戦から数日。
一行は霊霄府の古い屋敷を借り、浩然の療養を兼ねて滞在していた。
容態が安定してからは、誰が言い出すともなく、浩然の部屋に全員が集まるのが日常となっている。
帳が下りる頃、星宇が灯火を揺らしながら面白がって怪談を始めた。
「この屋敷には昔、不気味な琵琶を奏でる女の幽霊が出たらしい……」
「兄様! くだらない冗談はやめてください!」
玲玲は声を荒らげて強がってみせたが、その指先は小さく震えていた。実のところ、彼女は幽霊の類が大の苦手なのだ。
烈華と鳳嵐は「琵琶弾きの霊? あほらし」と、呆れた表情で茶を啜っていたが。
その晩、ようやく歩けるまでに回復した浩然は、ふとした物音で深夜に目を覚ました。
独り、上衣の合わせを静かに解く。露わになった二の腕の黒い筋は、すでに肩の近くまでその根を伸ばしていた。浩然は力なく目をつぶり、深い溜息をつく。
乱れた衣を整え、彼はゆっくりと窓の方へ歩み寄った。月明かりに照らされた己の手を見つめ、他人事のように思う。
(数日前、私は本当に死にかけたのだな……)
だが北斗派の面々の尽力のおかげで、今も生きている。南斗の人間だと薄々感じながらも助けてくれた彼らの義侠心に、胸が熱くなる。
だが、目を閉じれば浮かぶのは玲玲の泣き顔だ。
(あんな顔を、二度とさせてはいけない。……だが、私はいつまで生きていられる?)
物思いにふけりながら夜風に当たっていると、背後の暗闇から、怯えた様子の玲玲が、震えながら這い出してきた。
「玲玲? どうした、眠れないのか。……はは、星宇殿の怪談を真に受けたんだね。大丈夫、幽霊なんて出やしないよ」
浩然はいつもの「兄代わり」の笑顔を向け、彼女を安心させようとする。
――その時。
冷たい風が吹き抜け、背後の扉がバタンと音を立てて閉まった。
「キャッ……!」
悲鳴を上げた玲玲は、なりふり構わず浩然の胸へと飛び込んだ。その腰に両腕を回し、必死に、縋るようにしがみつく。
「う、ううっ……! 浩然様、怖い……! どこにも行かないで、私を独りにしないでください……っ!」
窓から差し込む青白い月明かり。潤んだ瞳で見上げてくる、玲玲の無垢な表情。
腕の中に収まった柔らかな体温と、花のような甘い香り。そして、自分を絶対的に信頼し、求めてくるその健気さ――。
この瞬間、浩然の中で何かが音を立てて崩れ去った。
(……近い。なんだこれは、柔らかすぎる。待て、私は、彼女の兄代わりのはずだ……。なのに、どうして心臓が、こんなにうるさいんだ!)
耳元で心の臓の音が響く。思考が焼き切れるような衝撃。これまでの善意や理性など、一瞬で濁流に飲み込まれていく。
守りたい。このまま、ずっと抱きしめていたい。誰にも、何者にも、この温もりを渡したくない。
噴出したのは、いつもの清廉な薬売りからは想像もつかない、一人の男としての強烈な渇望だった。
浩然は、震える腕で彼女を力任せに抱きしめ返した。だが、あまりの動揺に、自らの力も、噴き出した独占欲も制御できない。
「大丈夫だ、玲玲! 私が、私が絶対に守る……! 幽霊など、この手で一刀両断にして……! だから、ずっと、ずっと私のそばに……!」
「……っ、浩然様……く、苦しいです……!」
ものすごい力で締め上げられ、目を白黒させる玲玲。
その悲鳴に近い訴えでようやく我に返った浩然は、火に触れたかのように手を離した。
「あっ、すまない! 私は、その……!」
頭から湯気が出そうなほど顔を真っ赤にし、夜の闇へと逃げるように背を向けるのであった。
翌朝。
昨夜のあの「密着」と熱い言葉が頭から離れず、玲玲と浩然の間には、言いようのない気まずい沈黙が流れていた。
目が合えば顔を真っ赤に染めて目を逸らし、偶然指先が触れれば跳ねるように距離を置く。
星宇はそんな二人の様子をニヤニヤと眺めながら割り込んできた。
「おーい、二人とも。朝から妙にギクシャクしてどうしたんだ? 昨夜、何か面白いことでもあったのか――」
――ドゴォッ!
「あだだだだっ!?」
からかい混じりの言葉が最後まで紡がれるより早く、烈華の鋭い拳が星宇の脳天にめり込んだ。
「……この馬鹿。二人の邪魔をするなと、あれほど言っておいただろう」
烈華は冷え切った瞳で見下ろし、拳についた埃を払うように一振りした。
星宇は涙目で頭を押さえながら、必死に食い下がる。
「ひ、酷いぞ烈華ちゃん! 私にはこれでも、兄として妹の純潔を不埒な輩から守る義務が……」
「その義務なら、私が果たす。お前はあっちへ行って、私が切り裂いた薪でも片付けていろ」
烈華の背後に立ち上る、問答無用の殺気。
「……はい、喜んで!」
星宇は脱兎のごとく、涙目で手伝いへと駆け出していく。
嵐が去ったような静寂の中、残された浩然と玲玲は、余計に気まずくなってさらに俯くことしかできないのであった。
星宇が半べそをかきながら薪を拾い集める背後で、烈華はふう、と深く、呆れたようなため息をついた。
彼女は、いまだに互いの顔を見られずに固まっている浩然と玲玲を、チラリと盗み見る。
二人の耳は、揃いも揃って真っ赤だ。
「……やれやれ、不器用な奴らだ」
烈華は小さく呟くと、誰にも気づかれないほどの微かな笑みを口元に浮かべた。
浩然が背負っている「孤独な薬売り」の冷たい影が、玲玲という光に触れて、少しずつ、けれど確実に解け始めている。
烈華はあえて二人を急かすことはせず、腕を組んだまま、静かに空を見上げた。
「――せいぜい、ゆっくり進むがいいさ。その間、外野の掃除は私が引き受けてやるからね」
彼女のその独り言は、薪を落として慌てふためく星宇の騒がしい声にかき消され、誰の耳に届くこともなかったが、その眼差しには確かな温かさが宿っていた。




