表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星漢共鳴曲  作者: ふじま
第3章
PR
32/43

第32話 慈雨の再来、真実の剣

雲龍府の霧と陰謀を背にして、一行を乗せた船は大河を滑るように南下していた。

甲板に立つ皆の視線の先には、雲海にそびえ立つ六つの険しき峰――南斗派の総本山「六星岳ろくせいがく」が、その威容を現し始めている。


「次の目的地は霊霄府れいしょうふか。随分と南に来たものだ」


星宇シンユーが、湿り気を帯びた南風に目を細める。

北斗派の本拠地「天枢城てんすうじょう」は、もはや遥か北の彼方。今や彼らがいるのは、北斗と長年の因縁を持つ南斗派の聖地「翠嵐すいらん」の膝元であった。


「南斗派には、六つの山の名にちなんだ六人の達人『六星ろくせい』がいると聞く」


烈華リェファが、警戒を解かぬまま南に連なる険しい峰々を見据える。鳳嵐フォンランが静かに続けた。


「ええ。中でも『暁陽剣仙ぎょうようけんせん』は六星最年少ながら、その絶技『霞隠かいんの銀糸』は、見る者に苦痛すら与えぬ速さだったとか」


玲玲リンリンは、鳳嵐の言葉を噛みしめるように、静かに水面を見つめていた。


「……皓月ハオユエ叔父上も言っていました。暁陽剣仙の剣筋は『慈雨じうの剣』と呼ばれ、万物を潤し、浄化するような慈愛に満ちていたと。北斗と南斗、立場は違えど、あの方だけは真の武芸者であったと……」


玲玲がそう言って浩然ハオランの方を振り返ると、彼はいつものように、少し困ったような微笑を浮かべて薬草を整理していた。


「暁陽剣仙は時折、山を下りては名もなき民を助けていたらしいね。仮面をつけて素顔を隠していたそうだが……」


星宇が、わざとらしく浩然の隣に腰を下ろし、その横顔を覗き込んだ。


「そのお人好しぶりや、妙に鼻が利くところから察するに……実は、浩然みたいな奴だったんじゃないかな?」


一瞬、風が止まったかのような沈黙。

鳳嵐と烈華の視線が、鋭く浩然に突き刺さる。玲玲もまた、期待と不安が入り混じった瞳で彼を見つめた。

しかし、浩然は手元の大棗たいそうを袋に詰め終えると、ゆっくりと首を振った。


「星宇殿、お戯れを。私はただの、しがない薬売り。雲の上の剣仙様と肩を並べるなんて、おこがましいにも程がありますよ」

「……そうか? ならいいんだが」


星宇は肩をすくめたが、その瞳は笑っていない。

烈華もまた、浩然の指先を見つめ、昨夜の道観どうかんで見せた「慈悲」の正体を、確信に近い疑念とともに胸に刻んでいた。

玲玲は、浩然の横顔に重なる「慈雨」の面影を追いながら、心の中で密かに呟いた。


(たとえ浩然様が剣仙様でなくても、私を救ってくれたあのお節介な手は、私にとっての『慈雨』そのものなのです……)


船は、さらに南へ。浩然の隠し通したい過去と、玲玲たちの守りたい今を乗せて、霊霄府へと突き進んでいく。



霊霄府は古くから修道者が集まる道観が立ち並び、街全体にどこか神秘的な、それでいて肌を刺すような厳かな空気が漂っている。


「黒衣の刺客が道士と関わりがあると仮定すれば、ここでの活動には細心の注意が必要です。何せ霊霄府は道教の聖地……我らにとっては、敵の懐も同然ですから」


浩然の静かな、しかし警告を含んだ言葉に、一行は上陸後の対策を練るべく表情を引き締めた。



霊霄府の入り口、霧に煙る千橋街せんきょうがい


鳳嵐フォンランは、完璧な布陣を敷いたはずだった。地形を読み、刺客の退路を断ち、玲玲リンリンを最優先で保護する。彼の頭脳が導き出した「最適解」は、しかし、刺客の非道な策の前に無残に砕け散った。


「……くっ、子供を盾に使うとは……!」


路地の奥、仕掛けられた爆薬の導火線に火が灯る。その先には、逃げ遅れた幼い少女が泣き叫んでいた。

刺客たちは、鳳嵐が少女を助ければ玲玲が隙だらけになり、玲玲を守れば少女が死ぬという、残酷な二択を突きつけたのだ。


「完璧な策」に固執する鳳嵐の思考が、一瞬、停止した。 


(どちらかを選べば、どちらかが失われる。……私の計算に、こんな結末はなかったはずだ!)


その停滞を切り裂いたのは、鋭い剣鳴ではなく、泥に塗れることを厭わぬ足音だった。


「鳳嵐殿、玲玲を頼みます!」


叫んだのは、浩然ハオランだった。

彼は胸を刺す毒の激痛に顔を歪めながらも、迷いなく爆発寸前の少女の元へと飛び込んだ。


「馬鹿か! 死ぬぞ、浩然!」


鳳嵐の制止も虚しく、浩然は少女を抱きかかえ、爆炎が上がる寸前に路地を転がった。背中に火傷を負い、毒が全身に回って喀血かっけつしながらも、彼は腕の中の小さな命を離さない。


「……玲玲、奏でてくれ。この子を、怖がらせないように」


浩然の声に応え、玲玲は震える手で麗弦リーシェンを奏で始めた。その清らかな音色が、混乱する戦場に静寂の糸を紡ぎ出す。

浩然は朦朧とする意識の中、玲玲の音色に己の気を寄り添わせるようにして、襲いかかる刺客の刃を紙一重で受け流し続けた。

その姿は、かつて万物を浄化したという「慈雨の剣」そのものだった。


「……私は」


鳳嵐は、立ち尽くしていた。

自身の剣は汚れ一つなく、策は理知的だったかもしれない。だが、浩然はどうだ。泥にまみれ、毒に蝕まれ、無様に血を流しながら、彼は目の前の一つの命のために、自らのすべてを投げ出している。


「私は……『完璧な自分』を守ることに必死で、目の前の命を守ることに命を懸けていなかったのか……」


鳳嵐は理解した。浩然がなぜ、南斗の頂点である「暁陽剣仙」という地位を捨てたのか。

名誉も、力も、立場も、この男にとっては「目の前の命」を救う重みに比べれば、塵に等しかったのだ。

己の器の小ささを自覚した鳳嵐の瞳に、初めて「誇り」ではない「覚悟」の火が灯る。


「……星宇シンユー殿、烈華リェファ殿! 浩然を死なせるな! 玲玲殿、曲を止めるな! 私が……この一帯の敵をすべて、薙ぎ払う!」


鳳嵐は、白銀の剣を泥に浸し、ただ一人の武芸者として、浩然の背中を守るために戦場へと身を投じた。

完璧であることを捨てた鳳嵐の剣は、かつてないほどの鋭さと重さを帯びている。


「策など不要! 私が、道を作る!」


鳳嵐の咆哮とともに、白銀の剣が空を裂いた。これまでの優雅な剣筋とは違う。一撃一撃に、守るべきものへの執念が宿る重い斬撃。


玲玲は震える指先を弦にかけ、琵琶をかき鳴らした。


「……旋律を、力に変えて!」


玲玲の奏でる琵琶の音色が戦場を包む。その音の粒は、鳳嵐の剣気を増幅させ、星宇の扇が放つ風を刃に変え、烈華の大刀に爆発的な破壊力を付与した。


星宇は「へぇ、熱いねぇ!」と笑いながら影のように敵の懐へ潜り込み、烈華は「邪魔だ、どけ!」と一振りで刺客三人をごみのように吹き飛ばす。


三人が作った鉄壁の守りの中で、浩然は少女を抱いたまま、膝をついていた。

背中の火傷、そして無理に内力を使ったことで、宿病の毒が心臓にまで迫っている。


「浩然様! ……そんな、血が止まらない……!」

「……玲玲、大丈夫……。少し、眠いだけだ……」


浩然の瞳が閉じかけ、その体が氷のように冷たくなっていく。


「浩然! 死ぬな!」


敵を殲滅せんめつし、血飛沫を浴びたまま駆け戻った鳳嵐が、浩然の肩を掴む。


「お前を死なせれば、私は一生、自分を許せん! 浩然、目を開けろ!」


鳳嵐は迷わず浩然の背に手を当て、自らの清浄な内力を惜しみなく注ぎ込んだ。だが、浩然の体内で暴れる毒はあまりに深く、鳳嵐の額からも汗が流れる。


「鳳嵐、一人で抱え込むな。……浩然、勝手に死ぬのは許さないよ。君の『お節介』の続き、まだ聞かせてもらってないからな」


星宇が鳳嵐の背後に回り、その肩に手を置いて自らの内力を重ねた。二人の二枚目が泥にまみれ、一人の薬売りの命を必死に繋ぎ止める。


「玲玲、弾き続けろ! 悲しい曲じゃない、命を呼び戻す『生』の旋律だ!」


星宇の鋭い声に、玲玲は涙を拭い、再び琵琶を抱え直した。

彼女は魂を削るようにして激しく、力強い旋律を奏でる。その音色は、鳳嵐と星宇が送り込む内力に「生命の波」を与え、浩然の止まりかけた心臓を、力強く鼓舞した。


烈華が、懐から貴重な秘薬――かつて老師から授かった「還魂丹かんこんたん」を取り出し、浩然の口に押し込む。


「……飲み込め、お節介焼き。あんたを死なせたら、この泣き虫を誰がなだめると思ってる」


皆の必死の献身、そして玲玲の奏でる命の音が、ついに浩然を死の淵から引き戻した。

浩然はぼんやりと目を開けると、自分を囲む泥だらけの仲間たちを見て、力なく笑った。


「……皆さん、ひどい顔ですよ。せっかくの男前が、台無しだ……」

「……黙れ、この大型犬め!」


鳳嵐は声を荒らげる。

だがその手は、浩然が二度と消えてしまわぬよう、強くその腕を支えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ