第5話 青い公子の噂と、私の大侠
漣影鎮を後にした二人は、河口近くに位置する紅棗関を目指し、南へと歩みを進めていた。鎮を離れるにつれ、街道の傍らには青々とした湿地帯が広がり、潮の香りを孕んだ風が吹き抜ける。
「玲玲、新しい服と靴はどうだい? どこか痛むところはないかな」
浩然が気遣わしげに覗き込むと、玲玲は軽やかな足取りで一歩踏み出し、微笑んでみせた。
「はい。とても動きやすくて、これならどこまでも歩いて行けそうです」
麻でできた服と質素な靴。繊細な刺繍はないが、今の彼女には、実直で丈夫なこの服と靴が何より頼もしかった。
浩然は満足げに頷くと、漣影鎮の酒場での聞き込みで得た「興味深い噂」を切り出した。
「紅棗関で、風流な『青い公子』が、凄まじい腕前の女侠を引き連れていたという話を聞いた。地元の悪徳商人がその女性に無作法に絡んだところ、彼女が放った一撃で石壁が粉砕されたらしくてね」
浩然は可笑しそうに肩をすくめる。
「その隣で、扇を持った公子は優雅に茶を啜りながら、野次を飛ばしていたそうだよ」
「壁を粉砕なんて……いかにも烈華姉さまらしいわ。にしても、兄様たちはそんなに目立って大丈夫なのかしら」
玲玲は呆れ顔でため息をついたが、その瞳には安堵の色が浮かんでいた。
北斗派の一行は、追手を撒くためにひとまず南の地へ逃れたに違いない。二人は仲間の背中を追うように、さらに南へと、歩みを早めるのであった。
◇
湿地帯を渡る風が、玲玲の頬を優しく撫でていく。先の襲撃以来、彼女の心に澱のように溜まっていた暗い雲が、星宇たちの噂を聞いてようやく晴れ渡ろうとしていた。
(兄様も烈華姉様も相変わらずでよかった……。鳳嵐様の遺体も見つからなかったというのだから、きっと、いつかまたどこかで再会できるはず……!)
安堵した途端、急に心臓がトクンと高鳴った。
北方の都から、運命に導かれるようにして出会った「孤独な美丈夫」。そんな彼と二人きりで、仲間を求めて未知の南方へと旅をしている今の自分。
玲玲はふと、これまで愛読してきた数々の物語を思い返した。
(……あら。これって、今の私って……まるで物語の主人公みたいじゃない!?)
そう自覚した瞬間、彼女の瞳は夜空の星を閉じ込めたように輝き始めた。隣を歩く浩然を、これまでは「親切な青年」として見ていたはずが、今の彼女の目には、悲劇を背負いながらも自分を守り抜く「運命の大侠」として映っている。
「……玲玲? 私の顔に、何か付いているかな」
あまりに熱烈な視線を感じて、浩然はきょとんとした顔で足を止めた。
「いえ、なんでもありませんわ! ……ただ、浩然様は本当に、私が夢に見たような『大侠』なのだと思って」
玲玲が一点の曇りもない笑顔でそう告げると、浩然は「えっ」と声を漏らし、狼狽えたように視線を泳がせた。
「だ、『大侠』だなんて、よしてくれ。私はただの薬売りだよ」
浩然は照れ隠しに頬を掻き、気恥ずかしそうに目を伏せる。その胸の奥には、これまで味わったことのないくすぐったい感情が込み上げていた。
これほどまでに真っ直ぐな信頼を寄せられ、「頼られている」と実感したことはなかった。彼女の抱く理想には程遠い自分かもしれない。けれど、この輝く瞳の中にある「自分」であり続けたい――。
「……まあ、君がそう言うのなら。紅棗関まで、その『大侠』にしっかり掴まっているといい」
浩然は少しだけ胸を張り、照れ臭さを隠すように、彼女よりも一歩前に進んで歩き出す。その背中は、昨日よりもほんの少しだけ大きく、頼もしく見えた。




