第4話 癒しの旋律と始まりの朝
少女は趙玲玲と名乗った。
脳内の鬱血が引くまでは予断を許さぬと判断した浩然は、数日の間、この宿で彼女を静養させることに決めた。
「焦らないで。まずは体内の気を整え、まずは傷を癒やそう」
浩然は彼女をなだめ、決して部屋を出ないようにときつく言い含めた。
だが、玲玲は、兄たちが無事かどうか不安で胸が張り裂けそうだった。うとうとしても、すぐに戦場の激しい音や煙が夢に現れる。そのたびに冷たい汗をかいてはね起きるということを、何度も繰り返すのだった。
ある夜、悪夢に喉を震わせ、弾かれたように身を起こした玲玲の傍らで、浩然は静かに声を落とした。
「……大丈夫。心配ない、私がここにいる」
彼は玲玲を再び横たわらせると、その大きな手のひらで、幼子をあやすようにゆっくりと彼女の背を叩き始めた。
玲玲の背を叩く一定の刻みは、かつて熱にうなされた浩然に、母が寄り添ってくれた時のものだった。不意に蘇った手の平の記憶に、浩然はふと遠い目をする。それは、今はもう戻ることのできない、あたたかな匂いがする安らぎの記憶であった。
節くれ立った無骨な手。けれど、その一定の刻みから伝わる確かな温もりと重みは、玲玲の凍りついた心を不思議なほどに解きほぐしていく。
ほどなくして、玲玲の強張っていた表情はふっと緩み、安らかな寝息とともに、彼女は深い眠りへと落ちていった。
数日後、玲玲はようやく布団から離れることを許された。
浩然が先の襲撃に関する情報を集めに出る間、玲玲は何か自分にできることはないかと申し出た。
「じゃあ、これで夕飯の買い出しを頼めるかな」
浩然はいくばくかの銅銭を彼女の手の平に載せた。しかし、玲玲は生まれてこのかた北斗派の奥深くで守られてきた身。銅銭を手に持つのさえ初めてで、ましてや独りで買い物をした経験など一度もない。
活気あふれる市場で、玲玲の目に留まったのは、店先で一際立派な輝きを放つ高麗人参だった。
(呉さんは口にこそ出さないけれど、お体の調子が優れない様子……。この人参を煎じて飲めば、きっとお元気になるはずだわ)
玲玲は迷うことなく、懐に忍ばせていた予備の銀錠を差し出し、それを買い求めてしまった。
意気揚々と宿に戻った彼女を待っていたのは、手ぶらで戻った玲玲を見て目を丸くする浩然だった。
「お嬢さん、夕飯の支度はどうしたんだい?」
玲玲は誇らしげに、両手で包んだ人参を差し出した。
「呉さん、お体が優れないのでしょう? これを召し上がればきっと元気になれると思って、買って参りました!」
花が綻ぶような玲玲の笑顔を前に、浩然は頭を抱え、困り果てたように声を落とした。
「……お嬢さん。その銀一錠あれば、普通の村人が一ヶ月は贅沢に暮らせるんだよ」
玲玲の表情が凍りついた。日々の営みにどれほどの対価が必要なのか、彼女は初めて知ったのだ。
「わ、私……そんなに貴重な銀を、無駄遣いしてしまったのですか……」
己の善意が、実は旅の行く末を危うくする「無知」による過ちだった。玲玲は耳まで真っ赤に染め、夕食の質素な粥を啜りながら、消え入りそうなほど小さくなって俯いてしまう。
(私の……この、治らぬ病まで心配してくれたのか)
浩然はそんな彼女を見つめ、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。
「……私の体を案じて選んでくれたのだろう? ありがとう。この人参は、二人で少しずつ大事にいただくことにしようか」
彼の優しい声音に、玲玲は少しだけ顔を上げ、潤んだ瞳でそっと頷くのであった。北斗派の豪華な食事とは比べるべくもないが、誰かが自分のために用意してくれた粥は、不思議と温かかった。
質素な夕食を終えた後。玲玲は、片時も離さず抱えていた包みをそっと解いた。丁寧に広げられた布の中から現れたのは、質素ながらも年月を経て深い艶を湛えた琵琶であった。
「この琵琶の名は『麗弦』……私の唯一の宝物です」
玲玲は愛おしげにその胴を撫で、そっと胸に抱え込んだ。
「私はこの年まで天枢城はおろか、北斗派の大門を潜ることも許されぬ身でした。世間を知らぬ私は、この旅路でも足手纏いになるばかりでしょう……。せめて、この音色を呉さんへのお礼に代えさせてください」
玲玲が静かに弦を弾く。
溢れ出した音は、まるで銀盤を転がる玉の粒のように清らかで、聴く者の魂を震わせる力を持っていた。
その瞬間、浩然の表情が驚愕に染まった。
絶えず臓腑を焼き焦がしていた毒による激痛が、潮が引くように和らいでいったからだ。
(……これは……? この音色は、特定の律動をもって経絡を刺激しているのか。停滞していた内力が活性化し、猛毒を押し返している……。微量ではあるが、気が浄化され、内功が増幅しているのか)
浩然は、琵琶を奏でる彼女の真剣な横顔を見つめた。そこには、守られるだけの可憐な少女ではない、揺るぎない意志を持つ一人の表現者としての強さが宿っている。
苦痛が消え去った後の凪のような心地よさ。それ以上に浩然の心を震わせたのは、荒んだ心に染み渡るような音の温もりだった。
「お人好し」と蔑まれても捨てられなかった己の甘さ。報われることのなかったその優しさを、彼女の琵琶が初めて「それで良いのだ」と肯定してくれたかのような。
漆黒の闇を彷徨っていた旅路に、初めて朝日が差し込んだような懐かしさに、浩然は目頭が熱くなるのを覚えた。
浩然を蝕む奇毒。それはかつてある事件で盛られたもので、内功を封じ、武術を使うたびに気が暴れて肉体を内側から破壊する呪い。
解毒の糸口さえ掴めぬまま江湖をさすらい、半ば諦めかけていたその絶望が、今、目の前の少女の指先によって覆されようとしている。
(まさか……私の解毒の鍵を握る者が、このお嬢さんだったとは)
玲玲の奏でる旋律が、二人の運命を密接に、そして不可分に繋ぎ合わせた瞬間であった。
翌朝、二人は宿を後にすることにした。浩然は古びた薬箱を、玲玲は麗弦を包んだ布をそれぞれ背負う。
「呉さん、改めて……どうぞよろしくお願いします」
改まって凛とした表情で頭を下げる玲玲に対し、浩然はどこか落ち着かない様子で視線を彷徨わせた。しばらく何かを言いたげに鼻の頭をこすっていたが、やがて観念したように口を開く。
「あの……その、『呉さん』という呼び方はどうも慣れなくて、背中が痒くなる。これからは『浩然』と呼んでくれないか」
玲玲は一瞬キョトンとした後、その言葉の意図を汲み取って、頬に愛らしいえくぼを浮かべた。
「わかりました、浩然様。……では、私のことも『お嬢さん』ではなく、玲玲と呼んでくださいませ」
浩然は照れ臭そうに小さく頷くと、短く「ああ、玲玲」と応じた。
朝の清らかな空気の中、二人は並んで一歩を踏み出す。
玲玲は背負い紐の結び目をギュッと握りしめ、青く澄んだ空を仰いだ。
(母様……どうか、兄様や烈華姉さまたちをお守りください。そして、私に彼らを助ける力を……)
彼女の小さな祈りは、浩然の力強い足音と共に、未知なる江湖の道へと溶け込んでいった。




