表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星漢共鳴曲  作者: ふじま
第1章
PR
4/30

第4話 癒しの旋律と始まりの朝

少女は趙玲玲チャオ・リンリンと名乗った。

脳内の鬱血うっけつが引くまでは予断を許さぬと判断した浩然ハオランは、数日の間、この宿で彼女を静養させることに決めた。


「焦らないで。まずは体内の気を整え、まずは傷を癒やそう」


浩然は彼女をなだめ、決して部屋を出ないようにときつく言い含めた。


だが、玲玲は、兄たちが無事かどうか不安で胸が張り裂けそうだった。うとうとしても、すぐに戦場の激しい音や煙が夢に現れる。そのたびに冷たい汗をかいてはね起きるということを、何度も繰り返すのだった。


ある夜、悪夢に喉を震わせ、弾かれたように身を起こした玲玲の傍らで、浩然は静かに声を落とした。


「……大丈夫。心配ない、私がここにいる」


彼は玲玲を再び横たわらせると、その大きな手のひらで、幼子をあやすようにゆっくりと彼女の背を叩き始めた。

玲玲の背を叩く一定の刻みは、かつて熱にうなされた浩然に、母が寄り添ってくれた時のものだった。不意に蘇った手の平の記憶に、浩然はふと遠い目をする。それは、今はもう戻ることのできない、あたたかな匂いがする安らぎの記憶であった。


節くれ立った無骨な手。けれど、その一定の刻みから伝わる確かな温もりと重みは、玲玲の凍りついた心を不思議なほどに解きほぐしていく。

ほどなくして、玲玲の強張っていた表情はふっと緩み、安らかな寝息とともに、彼女は深い眠りへと落ちていった。



数日後、玲玲はようやく布団から離れることを許された。

浩然が先の襲撃に関する情報を集めに出る間、玲玲は何か自分にできることはないかと申し出た。


「じゃあ、これで夕飯の買い出しを頼めるかな」


浩然はいくばくかの銅銭を彼女の手の平に載せた。しかし、玲玲は生まれてこのかた北斗派の奥深くで守られてきた身。銅銭を手に持つのさえ初めてで、ましてや独りで買い物をした経験など一度もない。


活気あふれる市場で、玲玲の目に留まったのは、店先で一際立派な輝きを放つ高麗人参だった。


ウーさんは口にこそ出さないけれど、お体の調子が優れない様子……。この人参を煎じて飲めば、きっとお元気になるはずだわ)


玲玲は迷うことなく、懐に忍ばせていた予備の銀錠ぎんじょうを差し出し、それを買い求めてしまった。


意気揚々と宿に戻った彼女を待っていたのは、手ぶらで戻った玲玲を見て目を丸くする浩然だった。 


「お嬢さん、夕飯の支度はどうしたんだい?」


玲玲は誇らしげに、両手で包んだ人参を差し出した。


「呉さん、お体が優れないのでしょう? これを召し上がればきっと元気になれると思って、買って参りました!」


花がほころぶような玲玲の笑顔を前に、浩然は頭を抱え、困り果てたように声を落とした。


「……お嬢さん。その銀一錠あれば、普通の村人が一ヶ月は贅沢に暮らせるんだよ」


玲玲の表情が凍りついた。日々の営みにどれほどの対価が必要なのか、彼女は初めて知ったのだ。


「わ、私……そんなに貴重な銀を、無駄遣いしてしまったのですか……」


己の善意が、実は旅の行く末を危うくする「無知」による過ちだった。玲玲は耳まで真っ赤に染め、夕食の質素な粥をすすりながら、消え入りそうなほど小さくなって俯いてしまう。


(私の……この、治らぬ病まで心配してくれたのか)


浩然はそんな彼女を見つめ、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。


「……私の体を案じて選んでくれたのだろう? ありがとう。この人参は、二人で少しずつ大事にいただくことにしようか」


彼の優しい声音に、玲玲は少しだけ顔を上げ、潤んだ瞳でそっと頷くのであった。北斗派の豪華な食事とは比べるべくもないが、誰かが自分のために用意してくれた粥は、不思議と温かかった。



質素な夕食を終えた後。玲玲は、片時も離さず抱えていた包みをそっと解いた。丁寧に広げられた布の中から現れたのは、質素ながらも年月を経て深い艶を湛えた琵琶であった。


「この琵琶の名は『麗弦リーシェン』……私の唯一の宝物です」


玲玲は愛おしげにその胴を撫で、そっと胸に抱え込んだ。


「私はこの年まで天枢城てんすうじょうはおろか、北斗派の大門を潜ることも許されぬ身でした。世間を知らぬ私は、この旅路でも足手纏あしでまといになるばかりでしょう……。せめて、この音色を呉さんへのお礼に代えさせてください」


玲玲が静かに弦をはじく。

溢れ出した音は、まるで銀盤を転がる玉の粒のように清らかで、聴く者の魂を震わせる力を持っていた。


その瞬間、浩然の表情が驚愕に染まった。

絶えず臓腑ぞうふを焼き焦がしていた毒による激痛が、潮が引くように和らいでいったからだ。


(……これは……? この音色は、特定の律動をもって経絡けいらくを刺激しているのか。停滞していた内力が活性化し、猛毒を押し返している……。微量ではあるが、気が浄化され、内功が増幅しているのか)


浩然は、琵琶を奏でる彼女の真剣な横顔を見つめた。そこには、守られるだけの可憐な少女ではない、揺るぎない意志を持つ一人の表現者としての強さが宿っている。


苦痛が消え去った後の凪のような心地よさ。それ以上に浩然の心を震わせたのは、荒んだ心に染み渡るような音の温もりだった。

「お人好し」とさげすまれても捨てられなかった己の甘さ。報われることのなかったその優しさを、彼女の琵琶が初めて「それで良いのだ」と肯定してくれたかのような。

漆黒の闇を彷徨っていた旅路に、初めて朝日が差し込んだような懐かしさに、浩然は目頭が熱くなるのを覚えた。


浩然をむしばむ奇毒。それはかつてある事件で盛られたもので、内功を封じ、武術を使うたびに気が暴れて肉体を内側から破壊する呪い。

解毒の糸口さえ掴めぬまま江湖こうこをさすらい、半ば諦めかけていたその絶望が、今、目の前の少女の指先によって覆されようとしている。


(まさか……私の解毒の鍵を握る者が、このお嬢さんだったとは)


玲玲の奏でる旋律が、二人の運命を密接に、そして不可分に繋ぎ合わせた瞬間であった。



翌朝、二人は宿を後にすることにした。浩然は古びた薬箱を、玲玲は麗弦を包んだ布をそれぞれ背負う。


「呉さん、改めて……どうぞよろしくお願いします」


改まって凛とした表情で頭を下げる玲玲に対し、浩然はどこか落ち着かない様子で視線を彷徨わせた。しばらく何かを言いたげに鼻の頭をこすっていたが、やがて観念したように口を開く。


「あの……その、『呉さん』という呼び方はどうも慣れなくて、背中が痒くなる。これからは『浩然』と呼んでくれないか」


玲玲は一瞬キョトンとした後、その言葉の意図を汲み取って、頬に愛らしいえくぼを浮かべた。


「わかりました、浩然様。……では、私のことも『お嬢さん』ではなく、玲玲と呼んでくださいませ」


浩然は照れ臭そうに小さく頷くと、短く「ああ、玲玲」と応じた。


朝の清らかな空気の中、二人は並んで一歩を踏み出す。


玲玲は背負い紐の結び目をギュッと握りしめ、青く澄んだ空を仰いだ。


(母様……どうか、兄様や烈華姉さまたちをお守りください。そして、私に彼らを助ける力を……)


彼女の小さな祈りは、浩然の力強い足音と共に、未知なる江湖の道へと溶け込んでいった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ