第3話 内功の代償と月下の誓い
浩然は、舟を待たせている河岸へと足早に向かっていた。
(……ここでも、解毒の糸口は見つからなかったか。次の鎮で新たな情報が得られれば良いのだが)
思考を巡らせながら歩を進めていると、にわかに町の空気が狂気を含み始めた。背後から押し寄せた群衆が、悲鳴を上げながら逃げ惑う。北斗派と、仮面をつけた不気味な黒衣の集団が死闘を繰り広げているらしい。
「黒衣の、仮面……?」
その言葉が胸に微かなざわつきを呼んだ瞬間、浩然の脇を一人の少女がすり抜けていった。
先ほど助けた少女だ。
傍らにいたはずの男の姿はない。彼女はただ一人、胸元の荷を握りしめ、逆流する人波を必死に掻き分けていた。その危うい後ろ姿が放っておけず、浩然もまた踵を返して彼女を追った。
辿り着いた戦場は、凄惨を極めていた。
惨状を前に呆然と立ち尽くす少女の背に声をかけようとした――その刹那、爆音とともに地が震えた。
衝撃波が彼女を薙ぎ払い、その小さな体は地面へと無防備に叩きつけられる。
「っ、お嬢さん!」
駆け寄り、抱き起こそうとした浩然の指が、ふと止まった。
彼女の衣の隙間から、その柔和な貌には似つかわしくない、冷徹な輝きを放つ銀の鈴が覗いていたからだ。
「……この鈴、北斗派の者か」
伸ばしかけた手を思わず引く。忌まわしき因縁が頭をよぎる。しかし、直前に見た彼女の無垢な笑顔が、その頬に浮かんだえくぼが、彼の脳裏を離れない。
何もできなかった幼き日の己の慟哭と、「二度と、救えるはずの手を離さない」という、血を吐くような自身の誓い。
「……くそっ」
その時、数人の黒衣が彼らを見つけ、無慈悲に刃を振り下ろした。
刹那、時が止まったかのような静寂。
浩然の姿が揺らめいたと思った瞬間、黒衣の者たちは悲鳴を上げることすら許されず、音もなく崩れ落ちた。
「……ぐっ、は……っ!」
視認すら不可能な、神速の剣技。だが、それと引き換えに浩然の顔は土気色に変わり、彼は呻き声を漏らしながら胸を押さえた。全身を巡る激痛が、臓腑を焼き焦がすかのように荒れ狂う。
荒い呼吸を整えるまで、数刻。
「……この娘をここに残せば、確実に殺されるな」
浩然は自嘲気味に呟くと、気を失ったままの玲玲を、壊れ物を扱うようにその腕に抱き上げた。
(……頭を打っていなければ良いが。まずは、ここを離れるのが先決だ)
彼は再び激痛が襲う前に、背の薬箱を締め直し、硝煙に巻かれる戦場を音もなく脱出した。
舟を待たせておいたのが、不幸中の幸いであった。船頭に、波を立てぬよう静かに漕ぐことを命じ、浩然は少女の顔を覗き込む。陶磁器のように真っ白でこわばったその顔は、死んだように静まり返ったままだ。
宿へ運び入れた後も、少女が目を覚ます兆しはない。浩然は脳内に鬱血がないか瞼を裏返して確かめ、手持ちの秘薬を調合して治療を施した。
(久々に内功を使ったな。)
手首を見てみると、黒い静脈が腕に向かって走っている。浩然はある出来事から奇毒に侵される身となった。それからは解毒方法を探して江湖を渡り歩いているが、二年経った今も糸口を掴めないでいる。
結局、彼女が意識を取り戻したのは、帳がすっかり下りた頃だった。容体の急変を見逃さぬよう枕元に座していた浩然の視界で、少女の指がぴくりと動く。
意識の淵を彷徨っているのだろう、彼女の瞳は焦点が定まらぬまま虚空を彷徨っていた。
「気がついたか。……気分はどうだい」
浩然が声をかけると、少女はびくりと肩を震わせて彼を見つめた。数秒後、弾かれたように上半身を起こすが、眩暈に襲われたのか、苦しげに顔を歪める。
「こら、横になっていなさい! 頭を強く打っているんだ、下手に動いてはいけない」
浩然は慌てて駆け寄り、その細い肩をそっと支えて寝台へと横たわらせた。
「私は……どれくらいこうしていましたか。ここはどこ……兄様は、烈華姉様は? 鳳嵐様や、門弟の皆さんはどこに……っ!」
記憶の糸が手繰り寄せられるにつれ、彼女の顔から血の気が引いていく。
「お嬢さんは爆風に煽られ、気を失っていた。あのまま放っておけば、賊の刃に掛かっていただろう。一時、安全な場所へ避難させたんだ」
浩然は手巾を差し出した。中には、彼女の身から外しておいた銀の鈴が包まれている。
「この鈴は仮面の者たちに目をつけられる。今は隠しておいた方がいいだろう。……お嬢さん、貴女は北斗派の者なのかい」
玲玲は鈴を手巾ごと両手で握りしめ、祈るように胸元へと当てた。
「……私の叔父は北斗派宗主、趙皓月です。あの場には、私の大切な人たちがいました」
震える唇から、ついに堪えきれぬ涙が一粒、零れ落ちた。
「皆が命を懸けて戦っている間、私は……何もできなかった」
せきを切ったように、真珠のような涙が丸い頬を次々と転がっていく。
浩然はその光景に、思わず呼吸を忘れた。悲しみの淵にありながらも、泥に染まらぬ蓮の花のような、その無垢な魂に心を射抜かれたのだ。
「何もできなかった」という彼女の吐露が、浩然自身の幼き日の悔恨と重なる。
(北斗派宗主の縁者……。本来ならば、関わるべきではない存在だ。そしてさきほどの襲撃。この娘の行く先は波乱が待ち受けているだろう。何度も内功を使えば私の身が保たない。だが……)
この清らかな少女を過酷な旅路に放り込むのか。彼女は兄と再会する前に命を落としてしまうかもしれない。
瞼を閉じれば、遠い記憶の底に眠る母の面影が蘇る。柔らかな頬に浮かぶえくぼ、そして「誰かの明日を共に守りなさい」という教え。
再び目を開いた時、彼の瞳には迷いのない光が宿っていた。
浩然は、少女の震える手を力強く握りしめる。
「貴女を、必ず安全な場所まで送り届ける。約束する。私が命に代えても、貴女を兄のもとへ引き合わせよう」
涙に濡れた玲玲の瞳が、浩然を捉えた。
「貴女の明日、この私が守り抜く」
それは、逃れられぬ運命へと足を踏み出す、彼自身の静かな誓いであった。




