第2話 山査子の飴と戦火の予感
玲玲と鳳嵐は蒼燕を後にし、合流地点である宿場町・臥星鎮へと足を進めた。
ここには、北斗派の任務を帯びた兄・星宇の一行が滞在しているはずである。
(ああ、兄様のことだもの。きっと鳳嵐様との二人旅を、ここぞとばかりに面白おかしくからかってくるに違いないわ……)
星宇は、妹の困り顔を見るのを無上の喜びとする質である。生真面目を絵に描いたような鳳嵐が、兄の軽薄な口撃を上手くかわせるとは到底思えず、玲玲は今から少しばかり憂鬱な気分に浸っていた。
そんな時、彼女が頼りにするのは姉貴分である柳烈華だ。烈華は皓月の養女で、玲玲にとって、実の姉のように心強い存在である。
兄にいびられては彼女の胸に泣きつき、憤慨した烈華が星宇を完膚なきまでに叩きのめす――それが、幼い頃から繰り返されてきた北斗派の日常茶飯事であった。
「いざとなったら、烈華姉様に泣きつくしかないわね……」
玲玲は心の中で密かにそう決意し、小さく溜息をつくのであった。
玲玲は琵琶を背負い、山査子の飴を片手に、一人で町の雑踏を歩いていた。
恋物語の講談を聞きに行きたかったのだが、鳳嵐が同行すれば気恥ずかしさで物語に集中できない。そう考えた彼女は、人混みに紛れて彼を撒いたつもりでいたのだ。
「確か、この路地を曲がった先だったはずだけれど……」
もちろん、武芸に秀でた鳳嵐が易々と撒かれるはずもない。彼は少し離れた場所から、危なっかしい玲玲の姿を静かに見守っていた。
だが、「魏殿、どこへ向かわれるのです?」と北斗派に連なる者から声をかけられ、ほんの一瞬、意識を逸らしてしまう。
――その刹那であった。
荷車から崩れた巨大な木材が、玲玲の背後に向かって倒れ込んだのは。
背後を襲う凄まじい轟音。振り返った玲玲の視界で、太い角材がやけにゆっくりと迫ってくる。恐怖に足が竦み、声も出せずに立ち尽くす彼女の体が、強引に、しかし確かな力で後方へと引き寄せられた。
「……っ!」
気がついた時、玲玲は力強い腕に抱きとめられていた。
驚きで見開いた眼前にあったのは、二十代半ばほどの、精悍な男の顔だった。くたびれた茶の麻布で作られた短めの長袍に、裾を絞った活動的な袴を穿いている。背には年季の入った木製の薬箱を背負い、癖のある黒髪を結い上げたその風貌は、整った顔立ちながらもどこか凄みを感じさせた。
間一髪で彼女を救ったのは、一人の若き薬売りであった。
「お嬢さん、どこか痛むところはありませんか」
鋭い眼差しとは裏腹な、穏やかで落ち着いた声。男は玲玲を安全な場所へと促し、真っ先に彼女の安否を気遣った。「木材が倒れたぞ!」「怪我人はいないか!」という周囲の喧騒が、遠くで鳴り響いている。
「だ、大丈夫です。危ないところを救っていただき、本当に……ありがとうございます」
玲玲が震える声で礼を述べると、そこへ「玲玲殿! どこですか!」と鳳嵐の悲痛な叫びが響いた。
駆け寄ってきた鳳嵐に無事を伝え、彼が青い顔で平謝りする木材商人への対応に追われている間。
薬売りの男――浩然は、いつの間にか新しい山査子の飴を買い求め、玲玲の前に差し出した。
「さっき持っていた飴は、土に汚れてもう食べられないでしょう。……よかったら、これを」
助けていただいた上に飴までいただくなど、と玲玲は固辞しようとする。
しかし、男はふっと微かな笑みを浮かべて言った。
「私は甘いものが苦手でして。持て余してしまうので、受け取っていただけるとありがたい」
玲玲は思わず微笑み、その無骨な優しさに心からの礼を告げるのだった。
薬売りの若者が人混みに消えた後、木材商人は玲玲のもとへも駆け寄り、地に頭をこすりつけんばかりに謝罪を繰り返した。商人を丁寧に宥めた後、玲玲は鳳嵐に向き直り、小さく肩をすぼめる。
「……ごめんなさい、鳳嵐様。貴方のもとを離れて、勝手に一人で出歩いた私が悪かったのです。余計な心配をかけてしまいました」
鳳嵐は、自分が一瞬でも意識を逸らしたことへの罪悪感に苛まれていた。だが、心から反省して潤んだ瞳を向ける玲玲を前に、きつく言葉を返すことなどできるはずもない。彼はひとつ深く溜息をつき、穏やかに尋ねた。
「……して、玲玲殿。一人でどこへ向かおうとされていたのですか」
玲玲はぱっと顔を上げた。撒いたつもりが実は見守られていたことへの気恥ずかしさと、何より隠し通したかった「恋物語好き」を打ち明けねばならなくなり、その頬は瞬く間に林檎のように赤く染まっていく。
「その……どうしても、聞きたい講談があったのです。……恋物語の。でも、鳳嵐様とご一緒だと、なんだか気恥ずかしくて……っ」
小さな唇から零れた、あまりにも無防備な本音。
俯き、羞恥に震える玲玲の姿を、鳳嵐は言葉を失って見つめた。夕陽を浴びたようなその朱に、冷徹な武芸者としての彼の中にあった何かが、音を立てて崩れ去る。一瞬だけ、時が止まったかのように彼はその愛らしさに視線を奪われた。
しかし、彼はすぐさまいつもの落ち着きを取り戻し、そつなく、けれどどこか声音を和らげて答えた。
「……左様でしたか。では、その講談の座まで送らせてください。私は邪魔にならぬよう、近くで貴女を待っていますから」
突如として、街の喧騒が悲鳴へと変わった。
通りの向こうから、顔を強張らせた人々が雪崩のように玲玲たちの側へと押し寄せてくる。逃げ惑う人々の叫びによれば、この先で北斗派と正体不明の集団が刃を交えているという。
鳳嵐の顔から余裕が消え、峻烈な武芸者の表情へと一変した。
「私は様子を見て参ります。玲玲殿はすぐに宿へ戻り、決して外へ出てはなりません。……良いですね、絶対ですよ!」
困惑する玲玲にそう言い残すと、鳳嵐は風を切って戦地へと身を翻した。
玲玲は言いつけ通り、人々の流れに呑まれるようにして宿へと向かう。胸中では、なぜ天下の北斗派が襲撃を受けたのかという疑問と、兄や烈華、そして鳳嵐たちの身を案じる黒い不安が渦巻いていた。
「……いいえ、やはり駄目だわ。皆が命を懸けて戦っているのに、私だけが安全な場所で震えて待っているなんて!」
玲玲は足を止め、弾かれたように踵を返した。
逃げてくる群衆に肩を叩かれ、押し戻されそうになりながらも、彼女は流れに逆らって懸命に走り出す。
やがて、空気を切り裂くような剣戟の音が響いてきた。
視界に飛び込んできたのは、北斗派の象徴である青と白の道着を纏った門弟たちと、不気味な仮面で顔を隠した黒衣の集団が死闘を繰り広げる凄惨な光景だった。
玲玲は必死に兄や烈華の姿を探す。「兄様! 烈華姉様!」と叫ぼうとしたその時――。
すぐ傍らで凄まじい衝撃音が轟き、火薬の炸裂とともに猛烈な爆風が彼女を襲った。
小さな体は木の葉のように宙を舞う。地面に叩きつけられ、視界が急速に暗転していく。
遠のく剣戟の音に混じって、誰かが自分の方へ、迷いのない足取りで駆けてくる気配を感じた。
だが、それが味方なのか敵なのかを確かめる術もなく、玲玲の意識は深い闇へと沈んでいった。




