第1話 天枢城の令嬢、外の世界へ
北梁の朝廷が力を失い、江湖(武侠の世界)が荒れる中、北斗派・南斗派の二大門派はどちらが真に天下を護る星かを競っていた。
北斗七星の第一星を冠した城邑「天枢城」。江湖にその名を轟かせる名門・北斗派の本山は、この地に毅然と構えられている。重厚な大門をくぐれば、広大な修練場からは若き門下生たちの気炎を吐くような掛け声が響き、武の府としての長い歴史を物語っていた。
その喧騒を遠くに臨む静かな離れの一室。窓際に腰を下ろした一人の少女が、風に揺れる満開の桃花をぼんやりと眺めていた。濡れ羽色の豊かな髪を高く結い上げ、背へと流した姿は、春の陽だまりに咲く一輪の花のように可憐である。丸みを帯びた大きな瞳は、うららかな日差しを反射して、深い輝きを湛えていた。
しばらくそうして微睡んでいた少女だったが、やがて傍らに置かれた琵琶を手に取り、そっと爪弾き始める。零れ落ちる音色は、盛りを迎えた桃の花をさらに匂い立たせるかのように優美であった。
少女の名は趙玲玲。今年十七を数える、北斗派宗主・趙皓月が姪であり、次期宗主たる兄・星宇とともに一門の至宝として慈しまれる令嬢である。しかし、その美しい音色の裏には、籠の鳥として過ごす日々への、かすかな退屈が滲んでいた。
玲玲は恋物語に胸をときめかせる夢見がちな少女であったが、髪を結い上げる年頃になると、周囲で縁談についての噂がちらつき始めた。
そんな折、叔父であり宗主の皓月に引き合わされたのが、北斗派を支える名家・魏家の若当主、魏鳳嵐であった。彼は門弟や侍女たちが溜息を漏らすほどの眉目秀麗さを誇り、文武両道を地で行く貴公子である。
(魏公子は誠に美しい方……。まるでお芝居の絵看板から抜け出してきたようだわ。けれど、あまりに隙がなくて、私のような者が隣に並ぶのは気後れしてしまう)
玲玲は鳳嵐に対し、物語の英雄への憧れのようなものは抱くものの、共に添い遂げる夫婦としての未来を、どうしても霧の向こうのようにしか描けずにいた。
二人の仲を深めようと画策する皓月は、任務で遠征中の兄・星宇への使いとして、二人を連れ立って旅に出させたのである。
初めて踏み出す江湖の熱気に、玲玲は胸の高鳴りを抑えきれない。
「ここが蒼燕の街! 噂に聞いていたよりも、ずっと活気に満ちているわ」
弾むような玲玲の横顔に、鳳嵐もふっと表情を緩める。
「玲玲様、何か望みはありますか。画舫(屋根付きの遊覧船)でも貸し切り、優雅に川を下るのも一興ですよ」
風流を好む彼らしい提案であった。しかし、玲玲はおずおずと、胸の内にあった願いを口にする。
「鳳嵐様、せっかくの旅です。叔父上のお言葉通り、まずはお互いを深く知ることから始めませんか」
「互いを知る、とは?」
不思議そうに首を傾げる鳳嵐に、玲玲は少し考え、微笑んで答えた。
「そう、例えば……お互いの好きなものを分かち合う、とか」
二人はさっそく、意外な共通点を見つけ出した。好物の桂花糕(金木犀の香りの菓子)の甘さに顔を綻ばせ、市井の講談師が語る熱い英雄譚に耳を傾ける。
「鳳嵐様、今の講談、胸が熱くなるような素晴らしい語りでしたわね」
憧れの講談を間近で聞き、玲玲は感無量の様子だ。
「ええ、情景が目に浮かぶようでした。言葉一つでこれほど人を惹きつけるとは」
鳳嵐もまた、その技量に感じ入ったようだ。
賑わう街並みを眺めながら、玲玲はふと本音をこぼした。
「ここは自由ですね。ずっとこのまま、外の世界を見て回りたくなります……。講談の英雄たちは皆、誰かのために戦い、道を切り拓いていました。私も兄様たちのように、少しでも北斗派の役に立てれば良いのだけれど……」
武術の素養がなく、ただ琵琶を爪弾くことしかできない自分。そんな己へのもどかしさが、言葉の端に滲む。
しかし、鳳嵐は至極生真面目な顔で、彼女の言葉を遮った。
「玲玲様、江湖は貴女が思うほど甘い場所ではありません。戦いや泥臭い役目は、すべてこの鳳嵐が引き受けましょう。貴女はただ、安全な場所で琵琶を奏で、その清らかなままでいてくだされば良いのです」
――自立したいという願いも、共に歩みたいという志も、優しさという名の壁に拒絶された。玲玲は琵琶を抱え、悲しげに長い睫毛を伏せるしかなかった。




