第30話 お人好しの真価、霧の雲龍府
榴花府を後にした一行は、大河をさかのぼり、雲龍府へと向かう巨大な客船に揺られていた。
「助けてくれ! 誰か、息子が……!」
客船の甲板に、悲鳴が響き渡った。
折からの長雨で増水した大河は、龍の如くうねり、濁流となって船縁を叩いている。見れば、荷物運びの手伝いをしていた少年が、足を滑らせて荒れ狂う川面へと呑み込まれていくところだった。
船上の誰もが、その激流の恐ろしさに足を竦ませた、その刹那。
「――っ、浩然様!?」
玲玲の悲鳴に近い声が響くより早く、浩然の体は動いていた。
彼は躊躇いも、迷いも、己の命への執着さえも一切見せない。ただ一点、溺れる命だけを見据えて濁流へと身を投げたのである。
「……あのお人好しが!」
星宇が身を乗り出し、扇子を投げ捨てて救助の縄を掴む。
一方、鳳嵐は冷たい飛沫を浴びながら、水面で必死に少年を抱え上げる浩然の姿を、驚愕の目で見つめていた。
「馬鹿な……。あの激流だ、武芸者とて内力を使い果たせば命はない。己の身を顧みず、なぜあそこまで……」
鳳嵐の脳裏に、浩然が時折見せる影ある表情がよぎる。
(……こいつ、放っておけばいつか、誰かのためにあっさりと死ぬのではないか?)
それは恋敵への敵意ではなく、危うい崖っぷちを歩く者を見守るような、初めての「危惧」だった。
やがて、星宇と鳳嵐が協力して引き揚げた縄の先に、少年をしっかりと抱きかかえた浩然が戻ってきた。
浩然は甲板に上がるなり、激しく咳き込みながらも、真っ先に少年の容体を確認する。
「……よかった。少し水を飲んだようですが、脈はしっかりしています。……さあ、早く温かい白湯を」
自分の着物が泥水で汚れ、顔色が紙のように白くなっていることなど、彼は全く気にかけていない。
駆け寄った玲玲が「浩然様、お怪我は!? どうしてあんな無茶を……!」と涙目で訴えると、彼は弱々しく、けれどいつものように穏やかに笑った。
「玲玲、すまない。……だが手が届くところに命があったから」
その様子を、腕を組んで黙って見ていた烈華が、ふん、と短く鼻を鳴らした。
周囲では、助けられた少年の父親や乗客たちが、浩然の手を握り、涙ながらに感謝を捧げている。殺伐とした旅路に、浩然の「甘すぎる善意」が、確かな救いと温もりをもたらしていた。
「……烈華殿。やはり、あいつの行動は非効率です。一人のために一行を危険に晒すなど……」
鳳嵐が同意を求めるように呟くと、烈華は鋭い眼差しを濁流に向けたまま、静かに口を開いた。
「……甘いと思っていた。だが、鳳嵐。あのお節介が、絶望していた者たちの心に灯をともしたのも事実だ。……武を振るうだけが、人の上に立つ者の道ではないのかもしれぬ」
烈華は、浩然の「お人好し」の中に、己を捨ててでも他者を守るという、武芸者としての究極の覚悟を読み取っていた。
星宇は、濡れ鼠になった浩然に自分の上衣を放り投げ、隣で震える玲玲の肩を抱き寄せた。
「浩然、次からはせめて一声かけろ。……君が死んだら、この妹の涙を止める役が私に回ってくるんだ。勘弁してくれよ」
星宇の軽口に、浩然は「以後、気をつけます」と苦笑いを見せる。
客船は、夕闇が迫る大河を、雲龍府へと向かって突き進む。
浩然の無自覚な慈悲は、鳳嵐の自尊心、そして烈華の価値観を、少しずつ、けれど決定的に変え始めていた。
◇
雲龍府への上陸早々、一行は刺客の激しい追撃を受けていた。
華やかさがあった榴花府とは打って変わり、雲龍府は霧が深く、常に誰かの視線を感じるような不穏な空気が漂っている。
「――しつこいな。これじゃ、街の観光どころじゃない」
星宇が、扇子の骨に仕込んだ暗器で刺客の喉元を突き、吐き捨てるようにぼやいた。これで五人目だ。
「目当てのものが近いのか、南斗派の回し者か……。いずれにせよ、これだけ戦力を割いてくるということは、私たちの足取りは完全に割れているということだ」
烈華は、断鉄の重い一撃で最後の一人を叩き伏せ、血を払う。彼女の瞳は、霧の奥に潜む次なる影をすでに捉えていた。
「刺客の身のこなし……。星宇殿、やはり臥星鎮で北斗派を襲撃した者たちと同じ系統です。連中、こちらの剣筋を熟知しているかのように動く」
鳳嵐が鋭い眼差しで、倒れた刺客の仮面を見据える。その額には、連戦による疲労と、拭い去れない不安が滲んでいた。
その後方、玲玲は浩然の腕をしっかりと支え、霧の深い石畳を急いでいた。
「浩然様、顔色が良くありません。この間の無理が、まだ響いているのでは?」
玲玲の声には、隠しきれない懸念が混じっていた。三人が前線で刃を交える中、彼女は自分の隣で微かに乱れる浩然の歩みを敏感に察知していたのだ。
「……ありがとう、玲玲。大丈夫、少し霧に当てられただけだ」
浩然はいつものように穏やかに笑おうとしたが、その呼吸は浅く、額には冷や汗が浮かんでいる。前日の救助で冷たい水に浸かった体には、宿病の毒がいつも以上に鋭く突き刺さっていた。
「浩然様、私なら大丈夫です。もっと、私を支えにしてください」
玲玲は自ら浩然の腰に手を回し、彼を支えるように歩を早めた。その瞳には一人の成熟した女性としての強い覚悟が宿り始めていた。
浩然は玲玲の温もりを感じながら、足元に転がる刺客を一瞥した。
(……北斗の剣を知り尽くした動き。やはり、襲撃者は単なる外部の敵ではない。それに、この刺客たちの放つ毒の匂い……どこかで嗅いだことがある……)
「……星宇殿。少し、よろしいでしょうか」
浩然は、自分を支える玲玲の手にそっと感謝を込めて力を込めると、歩みを早めて星宇の隣に並んだ。その声は極めて低く、周囲の霧に溶けてしまいそうなほど静かだった。
「どうした、浩然。何か気になることでも?」
星宇はいつもの軽薄な笑みを浮かべていたが、その瞳は鋭く浩然の横顔を射抜いている。浩然が「薬売り」以上の何かであることを確信している目だ。
「……刺客たちの剣から、妙な匂いがします。かつて母から聞いたことがある、南斗派で禁じ手とされた劇薬の調合に酷似しているんです」
浩然はあくまで「亡き母から教わった知識」という形を取り、言葉を選んだ。
「ですが、単なる南斗の毒ではありません。北斗派の特効薬『回天丹』による中和をあらかじめ計算し、その裏をかくような改良が施されている。
……南斗の技術が、北斗の内情、それも極めて深い部分まで精通した者の手に渡っている可能性がある」
「なんだと……!? 北斗の秘事を、南斗の毒に掛け合わせているというのか」
思わず声を上げたのは、背後で聞き耳を立てていた鳳嵐だった。
「では、北斗の内部に内通者がいると……!? まさか、我が魏家の者まで関わっているとでもいうのか!」
名門の誇りを誰よりも重んじる鳳嵐にとって、それは己の魂を汚されるに等しい疑念だった。動揺のあまり、剣を握る拳が白く震える。
「落ち着け、鳳嵐。今はまだ、この薬売りの『鼻』が拾った推測に過ぎない」
烈華が短く、けれど重みのある声で場を制した。彼女も浩然を「ただの男」とは見ていない。だが今はその正体を暴くことよりも、彼がもたらす情報の正確さを優先していた。
「だが、浩然の鼻がそう告げるなら、警戒を強めるに越したことはない。……玲玲、下がっていろ。ここからは、外敵よりもたちの悪い『身内』に近い刃が飛んでくるかもしれん」
烈華の冷徹な判断に、鳳嵐は悔しげに唇を噛みながらも、浩然を一瞥した。
得体の知れない男だ、と鳳嵐は思う。ただの薬売りにしては、あまりに多くの真実を拾いすぎる。だが、その瞳に宿る玲玲への真っ直ぐな献身だけは、疑いようのない事実として彼の胸に突き刺さっていた。
霧に包まれた雲龍府。一行は、味方さえも疑わねばならない、底知れぬ陰謀の渦中へと突き進んでいく。浩然は、自分を支える玲玲の小さな手の感触を感じていた。自分が影に消えるその時まで、この「光」だけは、何があっても守り抜くと、密かに誓いながら。




