第29話 相応しき光、消えゆく影
榴花府の屋敷の広場では、過保護連合への「教育」という名の、烈華による苛烈なしごきが続いていた。
「どうした二人とも!腰が浮いているぞ!」
烈華の放つ大刀の風圧に、星宇も鳳嵐も身体をふらつかせながら耐えていた。星宇の優雅な歩法は乱れ、鳳嵐の白銀の衣は土にまみれている。北斗派の精鋭である二人をもってしても、烈華の地を這うような重厚な武芸の前には、防戦一方だった。
その様子を、木陰で見守っていた玲玲。彼女はそっと麗弦を抱え直した。
(少しでも、二人の力になりたい……!)
玲玲が弦に指をかける。奏で始めたのは、いつもの穏やかな調べとは正反対の、激しく、拍子の早い楽曲だった。戦場を駆ける騎馬の蹄音を思わせるような、勇壮な旋律が広場に響き渡る。
すると、不思議なことが起こった。
「……っ? なんだ、体が軽い……」
限界に達していたはずの鳳嵐の四肢に、熱い力が漲り始めた。
星宇もまた、目を見開く。体内の内力が旋律と共鳴し、沸き立つような活力が溢れてくるのを感じたのだ。
「おっと、これならいける!」
星宇は再び翻弄するような歩法を取り戻し、鳳嵐は烈華の重い一撃を正面から受け止め、鋭い剣気でそれを跳ね返して見せた。烈華も驚きに眉を動かし、思わず断鉄を引く。
「……烈華ちゃん、しごきすぎ! 死ぬかと思ったよ。でも不思議だな。麗弦の音色を聴いたら、なんだか力がみなぎってきたんだ」
稽古の後、地面に大の字になった星宇が息を切らしながら言った。鳳嵐も、自らの掌を見つめながら深く頷く。
「私も同じことを感じた。玲玲殿の音が、枯れかけた内力を無理やり呼び起こしたような……不思議な感覚だった」
玲玲は不思議そうに首を傾げ、琵琶の弦を優しく撫でる。
「実は……みんなと合流する前も、同じようなことがあったのです。麗弦の音色を聴いた人々の苦しみが和らいだり、逆に昂ぶった気持ちが静まったり……」
「ただの調べではないということか」
烈華が汗を拭いながら、玲玲の抱える麗弦をじっと見つめた。
「この『麗弦』が特別なのか、あるいは琴譜に秘密があるのか。……あるいは、その両方か」
「どっちにしても、玲玲が私たちの最強の援護役だってことは間違いなさそうだ」
星宇が軽口を叩いて場を和ませようとする。
だが、玲玲は麗弦をそっとなぞりながら、少しだけ寂しげに目を伏せた。
「……この麗弦を贈ってくださったのも、あの琴譜を教えてくださったのも母様よ。もし今も生きてらしたら、この不思議な力の理由も、詳しく話を聞けたかもしれないのに……」
ぽつりと漏らした言葉。星宇は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに優しく妹の頭を撫でる。
玲玲が幼くして亡くした母――星宇にとってもまた、その温もりは遠い記憶の中にしか残っていないものだった。
「母様のことだ、きっと玲玲に『誰かを助けられる力』を遺してくれたんだろう。」
星宇が笑うと、一行は揃って麗弦を見つめ、その秘められた力について語り合った。
浩然もまた、一歩下がった場所から、玲玲の持つ琵琶と、彼女自身の純粋な想いを見守っる。
しかしその瞳には、この不思議な力が、いずれ彼女を大きな運命の渦へ巻き込むのではないかという、鋭い懸念が微かに宿っていた。
◇
修練を終えたばかりの烈華が、汗を拭いながら上衣の襟元を少し緩めて中庭に現れた。
「ふう、今日の夜風は冷えて助かるな……星、どうした? そんなところで固まって」
星宇は手に持っていた扇子を止めたまま、文字通り石のように固まってる。
緩んだ襟元から覗く鎖骨の白さと、戦いの中では見せない烈華の無防備な肌。月光に照らされた彼女は、普段の勇ましさが嘘のような、艶やかな色気を放っていた。
「……いや、別に。……君さ、少しは自分が女だって自覚を持ったらどうだい?」
「ん? 武芸者に男も女もないだろう」
不思議そうに首を傾げて顔を近づけてくる烈華に、星宇は「君のその無自覚な攻撃は、本当にタチが悪い」と毒づきながら烈華の胸元を整える。そしてそそくさと自室へ逃げ帰ってしまった。
◇
榴花府の夜は更け、運河沿いに並ぶ紅い提灯が水面にゆらゆらと溶け出している。
浩然は、夜風に当たろうと出た中庭の回廊で、足を止めた。
石榴の木陰、月明かりに照らされた場所に、玲玲と鳳嵐がいたからだ。
「……母様が大切にしていた琴譜は、北斗派の古い秘曲と繋がっていると、昔、父様も仰っていましたわ」
「ええ。魏家にもその伝承は残っています。玲玲殿、貴女がその曲を継ぐことは、北斗派の誇りを取り戻すことでもあるのです」
二人の間に流れるのは、同じ「北斗」という血脈を継ぐ者だけが共有できる、穏やかで高潔な時間だった。
清楚な令嬢として亡き父母の面影を語る玲玲と、それを気高く、力強く支える鳳嵐。その姿は、まるで一枚の美しい絵画のように完成されており、見る者すべてに「似合いの二人だ」と思わせる説得力に満ちている。
浩然は、手にした薬草の束を強く握りしめた。
(魏鳳嵐……魏家は、代々北斗派を支えてきた名門だ)
何より、鳳嵐には「未来」がある。毒に侵されることのない健やかな肉体と、北斗派を背負って立つ揺るぎない立場がある。
一方の自分はどうだ。名もなき庶民の出であり、唯一の肉親だった母も今はいない。南斗派次期宗主としての座を追われ、その身には刻一刻と命を削る猛毒が回っている。
彼らが語り合う「北斗の歴史」の中に、敵対する南斗派の、それも余命いくばくもない自分が入る隙など、どこにもないのだ。
(……彼女が心から笑い、己の宿命を語り合えるのは、彼の前だけなのだな)
浩然は、暗がりに身を潜めたまま、自嘲気味に口角を上げた。
玲玲が自分に向けてくれる笑顔は、温かく、尊い。けれど、自分と一緒にいれば、彼女は毒に蝕まれていく自分を見守る悲劇を強いられることになる。
(私は、彼女を巻き込むことしかできない……。あんな風に、光の中で彼女を支えられる男こそが、彼女には相応しい)
浩然の瞳に宿るのは、嫉妬ではなく、底知れないほど深い自己犠牲だった。
玲玲の幸せを願うなら、この旅の終わりに彼女を鳳嵐へ託し、自分は独り、影の中へ消えるべき。
とっくの昔に決意している。だがそれを考えると、浩然の胸は、毒の疼きとは違う鋭い痛みで締め付けられた。
暗い影の中に佇む薬売りは、もう一度だけ、月明かりの下で微笑む玲玲を見つめる。
その光があまりに眩しくて、浩然は静かに目を逸らし、誰にも気づかれぬよう足音を消して、深い闇の中へと戻っていった。




