第28話 芝居の一幕、乱れる心
刺客の襲撃から一夜明け。宿の庭では鳳嵐が一人、昨日の己の至らなさを反省するように熱心に剣を振るっていた。
そこへ、杏をかじりながら星宇がふらりと現れる。
「おーおー、相変わらずクソ真面目だねぇ。だがさ、鳳嵐。そんな風に眉間にシワ寄せてるだけじゃ、玲玲は落とせないぞ?」
鳳嵐はピタリと動きを止め、不機嫌そうに星宇を睨んだ。
「……落とすとは人聞きが悪い。私はただ、彼女に相応しい守護者たらんと……」
「それが堅苦しいっての! 女子ってのは、もっとこう、強引に迫られるのに弱いんだよ。例えば……そう、壁ドンとかさ! 逃げ場をなくして、耳元で愛の言葉を囁く。これこそが都で流行りの必勝法さ」
「か、壁……どん……?」
鳳嵐の耳が、羞恥でみるみる赤く染まる。しかし、昨日の浩然への敗北感が彼の冷静さを奪っていた。
「……それが、武芸者の嗜みだと言うのか? 星宇殿がそこまで言うのなら、一度くらいは……」
その日の午後。廊下を歩く玲玲を見つけると、鳳嵐は決死の覚悟で彼女の前に立ちはだかった。
「あ、鳳嵐様? どうかなさいまし……っ」
「玲玲殿……っ!」
鳳嵐は耳まで真っ赤にしながら、勢いよく彼女の横の柱に手を叩きつけた。ドン、と鈍い音が響く。
「よ、避けることは許さない。君の瞳に映るのは……この、私だけで……十分だ……!」
精一杯のキザな台詞を吐き捨て、鳳嵐は自分のあまりの恥ずかしさに爆発しそうになっていた。
だが、その沈黙を切り裂いたのは、玲玲の反応ではなく、柱の影から聞こえてきた耐えきれない笑い声だった。
「――ププッ……! ぶはははは! 見た!? 今の見た!? 鳳嵐、顔真っ赤だし、台詞が棒読みすぎてダサすぎ! 傑作だな!」
星宇が腹を抱えて身をよじりながら、指を指して爆笑している。玲玲は目を丸くして、赤鬼のようになった鳳嵐と、笑い転げる兄を交互に見つめ、呆然と立ち尽くしていた。
「星宇殿……っ! 話が違うではないか! これが必勝の策だと言ったのは貴殿だろう!」
「あーお腹痛い……。本気でやる奴があるかよ!」
鳳嵐が憤慨して剣の柄に手をかけた、その時。
背後から、氷点下の声が響いた。
「お前ら……無駄口を叩く暇があるなら、素振りをしろ!」
烈華がいつの間にか背後に立ち、二人を文字通り射殺さんばかりの眼差しで見下ろしていた。
「……星、貴様は浮つきすぎだ。鳳嵐、貴様は他人の愚策に惑わされるほど己がないのか。二人とも、今すぐ外へ出ろ。私が直々に『稽古』をつけてやる」
「ひえっ、烈華ちゃん、冗談だって!」
「烈華殿……これは、その……星宇殿が……!」
二人は烈華に引きずられるようにして庭へと連行されていった。
それを見送る玲玲の隣に、いつの間にか浩然がひょっこりと現れる。
「賑やかですね。鳳嵐殿、柱に虫でもいたのでしょうか?」
「……多分、違うと思いますわ、浩然様」
玲玲はクスリと笑い、浩然が淹れてくれた温かい茶に口をつけた。
◇
庭の隅で烈華から厳しい稽古をつけられている男たちの声を遠くに聞きながら、玲玲は宿の縁側で、星宇から新たに貰った恋物語を膝に置いていた。
「……ふふ、あんなに格好良く迫られるなんて。まるで物語の中に入り込んでしまったみたい」
玲玲は頬を赤らめて、うっとりと独り言を漏らす。彼女にとって、鳳嵐の「壁ドン」は胸をときめかせる求愛ではなく、憧れの書物で見た「名場面の再現」そのものだった。
「鳳嵐様ったら、立ち姿から指先の形まで、絵に描いたような美男子ですもの。……とっても素敵な目の保養になりましたわ」
玲玲は、鳳嵐を恋愛対象としてではなく、至高の芸術品か、あるいは芝居の役者を見るような、純粋なワクワク感とともに思い出していた。
その隣で、浩然は手元の薬草をすり鉢で回しながら、どこか落ち着かない様子でいた。いつもなら規則正しく響くはずの音が、今日は少しだけ乱れている。
「……玲玲、鳳嵐殿のあのような振る舞い……その、嫌ではなかったのか?」
浩然は、あくまで「薬師として心拍を心配している」というような平然を装って問いかけた。
「嫌だなんて! 兄様の仰った通り、都で流行っているだけのことはありますわ。あんなに端正なお顔が近くにあるだけで、物語の主人公になったような……なんだか、夢を見ているような心地がしました」
玲玲が瞳を輝かせて語るたびに、浩然の胸の奥がチクリと痛む。
(……鳳嵐殿のような華のある美男子に惹かれるのは当然のことか。あのような強引な仕草も、彼女にとっては心躍る思い出になるのだな)
浩然は、自らの短い命を考えれば、彼女が鳳嵐のような立派な男に惹かれるのは喜ばしいことだと分かっている。分かっているはずなのに、すり鉢を回す手はどうしても止まらない。
「浩然様? なんだか、今日のお薬の匂いはいつもより少し苦い気がしますわ」
玲玲が不思議そうに覗き込んでくる。その無防備で真っ直ぐな瞳が、今はひどく眩しい。
「……ああ、少し、考え事をしていて。……玲玲、もし、鳳嵐殿がまたあのような……その、『演出』をしてきたら、どうする?」
「その時は、もっと近くでよく観察して、お話の続きを想像してしまいますわ! 浩然様も一緒にご覧になればいいのに。とっても綺麗なんですもの」
楽しそうに笑う玲玲を見て、浩然は「……はは、私は影から見守るくらいで十分だよ」と、薄っすらと笑みを浮かべるのが精一杯だった。
玲玲にとっては極上の「恋物語」の体験でも、浩然にとっては、己の独占欲と諦観が入り混じる、薬草よりも苦い「試練のひととき」であった。




