第27話 石榴の街の秘密、語られぬ敬意
一行は、運河の要衝「榴花府」へと足を踏み入れた。
街中のいたるところに石榴の木が植えられている。運河沿いには赤色の提灯が連なり、水面を赤く染めるその景色は、思わず目を奪われるほどに華やかであった。
街道沿いの宿。鳳嵐が近隣の勢力図や情報を探るために外へ出ている間、残された面々は食堂の片隅で一時の休息を取っていた。
すると、ふらりと外へ出ていた星宇が、満足げな顔で食堂に戻ってきた。
彼は扇をゆらりと動かし、含み笑いしながら玲玲へ一冊の書物を手渡す。
「玲玲。さっきの市場で見つけたんだが、今、都の令嬢たちの間で飛ぶように売れているという恋物語だよ。君も好きだろう?」
星宇が差し出したのは、美しい装丁が施された小説だった。
玲玲は目を輝かせるが、彼女は文字の羅列を追うよりも、人の声に乗った情景を愛する質である。
「兄様、ありがとうございます! 烈華姉様、いつものようにお願いできるかしら?」
「……やれやれ、あんたは相変わらず夢見がちなんだから」
烈華は呆れ顔ながらも玲玲の隣に腰を下ろし、慣れた手つきで受け取った。少し離れた席で、浩然が「へえ、都の流行りものですか」とのんびり茶を啜る中、烈華は最初の一頁を読み始めようとして――完全に凍りついた。
題名こそ『白蓮秘話』と小綺麗だが、そこに躍っていたのは、砂糖を煮詰めたような甘く淫靡な恋物語だった。
「……逃がさないよ、私の小さな白蓮。君の唇からこぼれる吐息は、どの銘酒よりも私を狂わせる。今宵、北斗の星が隠れるまで、君を私の腕の中で泣かせてあげよう……」
烈華の額に、ドロリとしたどす黒い殺気が渦巻き始めた。
「…………星…………宇…………」
烈華の低い、地鳴りのような声が店内に響く。玲玲が「烈華姉様? 若当主様にはどんな秘密があるの?」と無邪気に首を傾げる横で、烈華は書を「みしり」と音を立てて閉じた。
「星……貴様、また玲玲に妙な本を買ったな?⋯⋯ 死ね!!」
「はうっ!!?」
烈華の鋼のような拳――いや、内気を纏ったすさまじい一撃が、電光石火の速さで星宇の鳩尾を正確に捉える。星宇は啜っていた茶を天高く吹き出し、そのまま「カハッ、カハッ……」と陸に上がった魚のように口をパクつかせ、床に這いつくばった。
「ま、待て……烈華……。私はただ……店主に『今、最も令嬢たちに熱狂をもって迎えられている書を』と……。……ごふっ」
「巷で売れているからと言って、妹にこのような軽薄な物語を読ませようとするその感性、万死に値する! 玲玲がこの男に、こんな破廉恥な台詞を期待するようになったらどう責任を取るつもりだ!!」
烈華は鬼の形相で書を懐へ隠す。
一方、内容を横目で確認してしまった浩然は、顔を真っ赤にして薬草を床にばらまいていた。
「あ、あの……! 玲玲、私は、そんな『狂わせる』など、薬の調合を誤るような危ないことは絶対にしないからな!?」
「私の新しい物語が……! 烈華姉様、意地悪しないで返して!」
抗議する玲玲だが、烈華は「これは我が派の禁書だ!」と理不尽に断じ、決して返そうとはしなかった。
結局、星宇はその晩、みぞおちの鈍痛に耐えながら烈華に三時間にもわたって「兄としての在り方」を説教され、浩然は玲玲と目が合うたびに「こ、今夜は月が赤いな!」と脈絡のないことを叫ぶ挙動不審者に成り下がった。
玲玲だけが、没収された書を惜しみながら、「若当主様と白蓮の秘密とは何だったのかしら……」と、想像を膨らませるのであった。
◇
榴花府の夕暮れは、石榴の果実と同じ深く重い赤に染まる。
客店の裏庭、運河へと続く洗い場で、浩然は「これだけ干してしまいましょう」と、皆の洗濯物を丁寧に広げていた。
そこへ、赤い提灯を斬り裂くように三人の刺客が舞い降りた。仮面をつけた黒衣の徒――その身のこなしは尋常ではない。
「玲玲殿、下がっていろ!」
鳳嵐が即座に抜剣する。彼の剣は、名門の粋を集めた華麗にして迅速な一品だ。刺客二人の同時攻撃を鮮やかに弾き、一瞬の隙を突いて反撃に転じる。その剣術は間違いなく達人の域に達していた。
しかし、刺客たちは機械的な連携で鳳嵐を追い詰めていく。一人が鳳嵐の剣を縛り、もう二人が玲玲へと刃を向ける。
「しまっ……!?」
鳳嵐の計算が、初めて「死」という絶望に届きかけた、その時。
「鳳嵐殿!」
洗濯籠を抱えたままの浩然が、ふらりとその間隙に割って入った。
その瞬間、浩然の瞳から「お人好しの薬売り」の光が消え、澄み渡った剣仙の神気が爆発する。
浩然は剣を抜かない。手にした湿った手拭いを一閃させた。
鳳嵐が必死に防いでいた刺客の刃が、濡れた布に絡め取られ、円を描くように軌道を逸らされる。それは鳳嵐の剣筋を一切邪魔せず、むしろ「鳳嵐の剣が、まるで最初からそこを狙っていたかのように」敵の急所へと誘う、神業の如き一閃だった。
瞬き一つの間に、三人の刺客は地面に転がっていた。
「……え?」
鳳嵐が呆然とする中、刺客たちは一言も発さず逃げ去っていく。
「浩然殿、今のは……」
鳳嵐が問いかけようとした瞬間、浩然はすでにいつもの薬売りに戻っていた。彼は鳳嵐の肩をポンと叩き、爽やかに笑う。
「さすが鳳嵐殿、お見事です。貴殿の剣が道を切り開いてくれたおかげで、私は手拭いを振り回すだけで済みました。玲玲、薬湯の用意を手伝ってくれるかい」
浩然と玲玲が去った後、星宇と烈華が遅れて駆けつけた。
鳳嵐は、震える手で剣を鞘に収めた。彼の衝撃は、敗北感よりも深いところにあった。
浩然は、自分が手柄を立てる気などさらさらないのだ。あくまで「鳳嵐が玲玲を守り抜いた」という体面を守るため、影からすべてを完璧に調律した。その圧倒的な実力と、あまりに謙虚すぎる傲慢さに、鳳嵐は立ち尽くす。
「……あの男、何者なんだ。あんな男に玲玲殿は任せられん……と言いたいが、あいつより強い男がこの世にいるのか……?」
鳳嵐の髪が、冷や汗でわずかに乱れる。
「お人好しすぎて、憎むことすらできない」
そんな鳳嵐の肩に、星宇がひょいと腕を回した。
「気にするな。あいつは己の凄さにちっとも興味がないんだ。私たちのような、己の腕と面子に誇りを持ってる男にとって、あんな風に『無欲』なまま強すぎる奴は、一番やりづらい相手だろう?」
「星宇殿……。私は、どうすればいいのだろうか」
「とりあえず、あいつと一緒に野菜でも切ってこいよ。案外、仲良くなれるぜ?」
星宇はいつものように茶化したが、その瞳の奥には、すべてを見透かしたような光が宿っていた。
彼はすでに察している。浩然の身のこなしが伝説の「南斗派の剣仙」のそれであることも、その身体が毒に侵されていることも。
あえて何も知らない素振りをしているのは、浩然の命が残り少ないことを悟り、その正体を隠し通してやりたいという、彼なりの武芸者としての敬意だった。
隣で黙っていた烈華が、浩然が去っていった方向を見つめ、静かに呟く。
「……浩然殿。この馬鹿《星宇》が迷惑をかけるが、玲玲を頼む」
それは、誇り高き女侠である彼女が、浩然を「対等、あるいはそれ以上の男」として認めた瞬間であった。




