第23話 木漏れ日の旋律、蓮華の波紋
桃花府を後にした一行は、蓮華府へ向かう街道沿いの、木漏れ日が心地よい広場で休息を取っていた。
玲玲は手近な切り株に腰を下ろし、静かに琵琶を奏でる。それは単なる慰みではない。少しでも浩然の毒が和らぎ、体力が回復する助けになればという、彼女なりの切実な献身だった。
「……ふむ。玲玲の演奏を聴くのは久々だが、また一段と上手くなったね。それに以前よりずっと、力強い音を奏でるようになった。……これは、旅の経験のおかげかな?」
星宇が近くの木にもたれかかり、扇子を拍子代わりに叩きながらニヤニヤとからかった。
隣で荷物の整理をしていた烈華も、手を止めてその調べに耳を傾けている。
「確かに。音に芯が通っているな。迷いのない、良い音だ」
鳳嵐が、淹れたての茶を玲玲の側に置きながら静かに振り返った。その瞳には、心からの敬意が宿っている。
「玲玲殿の音色は、噂に違わず澄んでいて美しい。……北斗派の秘められた令嬢、趙玲玲。我ら門弟の間では有名でした。『天枢城を訪れた際、運が良ければどこからか響く美しい琵琶の音を聴くことができる』と。
私も随分前から、一度お会いしてみたいと思っていたのですよ」
「まあ、鳳嵐様まで……。そんなに褒められては、恥ずかしくて弾けなくなってしまいますわ」
玲玲は頬を染めて謙遜したが、信頼する仲間たちからの言葉を素直に受け取り、嬉しそうに微笑んだ。
その様子を、少し離れた場所で休んでいた浩然が、穏やかに口を開いた。
「……鳳嵐殿のおっしゃる通りですね。玲玲、君の奏でる音には、不思議と心を落ち着かせる力がある。聴いているだけで、身体の重みが消えていくようだ」
浩然はそこで一度言葉を切り、玲玲の弾く指先を愛おしそうに見つめた。いつものお人好しな微笑みの奥に、彼女を尊ぶ静かな想いが滲む。
「私がこうして旅を続けられるのは、薬の力だけではない。君の音が、私の支えになっているんだ。……玲玲、いつもありがとう」
「……浩然様」
玲玲は琵琶を抱きしめたまま、控えめながらも真っ直ぐな感謝を伝えてくる浩然に、少し照れたように俯いた。
「へぇ、玲玲の音で元気百倍ってわけだ」
星宇の冷やかしに、浩然は「本当のことですから」と少し困ったように笑った。
日の光に包まれた穏やかな休息。烈華と鳳嵐は、そんな浩然の様子をじっと観察していた。
◇
一行が蓮華府の活気あふれる運河に差し掛かった時のことだ。
たくさんの荷を積んだ巨大な商船が、操舵を誤り、蓮の実を摘んでいた老婆と孫の乗る小舟に衝突しかけた。
周囲に悲鳴が響く中、浩然は「あ、危ない!」と叫ぶなり、誰よりも早く動いた。
彼は船の縁を蹴り、水面を跳ねるようにして小舟へ飛び移ると、老婆の腰を抱き寄せ、もう片方の手で孫の襟首を掴んだ。そのまま、砕け散る小舟から対岸の石畳へと鮮やかに着地したのである。
その後、湖畔の酒楼に落ち着いた一行の間には、妙な沈黙が流れていた。
「……浩然殿。貴殿の行動は非効率の極みだ」
鳳嵐が、眉根を寄せて口を開いた。
「あのような目立つ真似をして我々の位置を晒してしまったら、元も子もない。……それに、今のはどう見ても上乗の軽功だったではないか。貴殿、本当にただの薬売りなのか?」
鳳嵐の疑り深い視線が、浩然を射抜く。
浩然は、毒の疼きを微塵も感じさせない涼しげな顔で、とぼけたように笑った。
「はは、滅相もない。鳳嵐殿、あれは軽功などではなく……ただの『火事場の馬鹿力』ですよ。
それに、私は足の裏に特殊な滑り止めの薬を塗っておりましてね。水の上を数歩走るくらい、薬売りの知恵があれば造作もないことです」
「水の上を走る薬だと? そんな馬鹿な……」
「おや、疑うのですか? 鳳嵐殿のような知性派なら、この蓮の実の外皮を剥く精密な作業が、いかに内力の鍛錬……ではなく、指先の器用さを養うか、お分かりになるはずだ」
浩然は、お礼に貰った蓮の実を卓に広げた。
「鳳嵐殿、この実は外殻に強烈な苦味成分が含まれています。これを指先一つ汚さずに剥くのは、一流の薬師でも至難の業。……もしかして、鳳嵐殿には少々難しすぎましたか?」
「私を誰だと思っている。……貸せ!」
案の定、自尊心を刺激された鳳嵐は、反論するのも忘れて蓮の実を掴み取った。
彼は計算された精密な動きで、ハスの実の外皮を次々と剥ぎ取り、中の芯を取り除いていく。その没頭ぶりは、もはや周囲の視線など目に入らないほどだ。
その傍らで、玲玲は「まあ、本当に綺麗に剥けるものですね」と、鳳嵐が剥いた端からパクパクと白い実を口に運んでいる。
「……玲玲殿、それは私の……っ、ああ、また食べた!」
「あら、ごめんなさい。でも、浩然様が仰った通り、これには心を落ち着かせる効果があるようですわ。鳳嵐様、もう一粒いただけます?」
「……くっ、致し方ない。あと十粒だけですよ」
鳳嵐は文句を言いながらも、玲玲の期待に応えるべく、さらに速度を上げて実を剥き始めた。
それを見守る星宇と烈華は、酒杯を片手に呆れ果てていた。
「……烈華、あいつは確信犯だぞ。自分の正体から目を逸らすために、鳳嵐を『内職』に没頭させやがった」
「……ああ。だが、あの公子が満足げな顔をしている以上、文句も言えまい」
星宇は、彼の「薬売り」という仮面の裏に潜む、底知れない深淵を改めて感じていた。
浩然は涼しい顔で茶を啜っているが、その指先は、玲玲の口元に運ばれる実の数を優しく見守るように、静かに卓を叩いていた。




