第20話 乙女の遊戯を脱ぎ捨てて
翌日も浩然の足取りは、素人目にも危ういほどに乱れていた。
顔色は青白く、額にはじっとりと脂汗が浮いている。身の内の毒が暴れているのは明白だったが、彼は玲玲を不安にさせまいと、「少し寝不足なだけだ」といつもの柔らかな微笑を顔に張り付けていた。
「浩然様、あちらの木陰で休みましょう。今朝の食事も、まだ手をつけていらっしゃらないでしょう?」
玲玲が甲斐甲斐しく荷を解き、大切に持っていた包みを差し出した、その時である。
道端の茂みから、ひょこりと一匹の子犬が姿を現した。
あばら骨が浮き出るほどに痩せ細り、泥に汚れた小さな体。その子犬は、弱々しい声で「くぅ……」と鳴き、浩然の足元に力なく擦り寄った。
浩然の瞳に、深い慈しみの色が宿る。
彼は迷うことなく、自分のために用意された干し肉をすべて取り出すと、それを一口大に細かくちぎり、子犬の前にそっと並べた。
「お腹が空いているんだね。さあ、遠慮せずに食べなさい。しっかり食べないと大きくなれないよ」
子犬が必死に食らいつく様子を、浩然は自分の空腹など忘れたかのように、満足げに目を細めて見守っている。
だが、その背後には、鬼の形相となった玲玲が立っていた。
「……浩然様」
「ん? ああ、見てごらん玲玲。この子、よほど空腹だったようで――」
「いい加減になさってください!」
玲玲の雷のような怒声が、静かな山道に響き渡った。浩然は、弾かれたように肩を震わせ、おそるおそる彼女を振り返る。
「れ、玲玲……?」
「今の浩然様は、その子犬よりもずっと危うい状態なのです! ご自分の命を削ってまで人を助け、あまつさえご自分の食事まで分け与えてしまうなんて……!」
玲玲は腰に手を当て、目に涙を溜めて熱弁を振るう。
「お人好しにも程があります! 今はまず、ご自分を大切にしてください! 浩然様に倒れられたら、私は……私は、どうすればいいのですか!」
「す、すまない。つい、放っておけなくて……」
浩然は縮こまり、しおしおと項垂れた。
「……もう、これをお食べください。私の分を半分分けますから。絶対に、残してはいけませんよ!」
玲玲はぷりぷりと怒りながらも、自分の分の食事を浩然の口元へ強引に押し込んだ。
浩然は「あ、あむ……」と、以前の「あーん」を彷彿とさせる情けない声でそれを受け止める。
足元では満腹になった子犬が、のんきに欠伸をしている。
それを見つめる浩然の困ったような、けれどどこか幸せそうな横顔を見て、玲玲は「全く……」と溜息を吐きながらも、その温かな背中を支える手を、より一層強く握り締めるのであった。
◇
紫霄山の陰惨な記憶を置き去りにし、二人は桃花府へと辿り着いた。
そこは、街を囲む緩やかな丘陵地に数万本の桃の木が植えられた美しい都。通りをゆく婦女子たちの華やかな衣が桃花の花びらのように街並みを彩っている。
しかし、その風光明媚な景色も、今の玲玲の目には、ただ虚しい虚像として映るだけだった。
きっかけは、道端で倒れ伏していた一人の女であった。
身なりの良い、けれどどこか儚げな美しさを湛えたその女を、浩然は迷うことなく助け起こした。
「大丈夫ですか、しっかり。今、脈を診ますからね」
浩然の大きな手が、女の細い肩を支える。甲斐甲斐しく介抱し、その冷えた肌を温めるように包み込む掌。
――その手は、先日の雨の夜、私を強く抱きしめてくれた手ではなかったか。
玲玲の胸の奥で、かつて読んでいた甘い恋物語の頁には一度も綴られていなかった、暗くどろりとした感情が鎌首をもたげた。
それは、美しい夢から覚めた者が最初に出会う、醜くも切実な本能。
(……嫌。私だけを見て。その温もりを、私以外に分け与えないで)
その瞬間、玲玲は自分自身の心の醜さに、激しい恐怖を覚えた。
今まで、兄や門弟たちに愛されるのは「当たり前」の日常で、自分もまた、周囲の人々に清らかな愛を注いできたつもりだった。
それなのに、今の自分はどうだ。行き倒れた哀れな女性を助ける浩然に、感心するどころか、その女性を排除したいと願っている。
(私……なんて恐ろしいことを。こんな暗い感情、知らない……!)
これまでの人生、兄たちが自分を慈しんでくれるのは、太陽の光が誰にでも降り注ぐのと同じくらい、当たり前のことだった。
玲玲はただその温かさに守られ、世間の風を知らぬまま、箱入り娘として過ごしてきたのだ。
けれど、外の世界で出会った浩然の愛は違う。
彼は血を分けた家族でもなければ、義務を負った臣下でもない。ただの他人なのだ。
いつかどこかへ消えてしまうかもしれない、何の関係も、何の縛りもない「他人」。
だからこそ、誰のものでもない浩然の心だけは、自分一人のものにしたいと強く願ってしまうのだ。
かつて憧れていた、綿菓子のように甘く夢見心地な「恋」の幻想は、今、目の前の光景によって跡形もなく焼き尽くされた。
喉の奥を焼くような焦燥と、全身の血を沸騰させるような独占欲。
玲玲は今、物語の乙女たちをなぞるような、遊戯としての恋を脱ぎ捨てた。
一人の男を激しく求め、他者を排除してでも独り占めにしたいと願う、業の深い「現実の愛」に、その身を深く染めていくのであった。
◇
浩然の体調は、予想を遥かに超えて悪化していた。
手がかりを求めて辿り着いた古寺から、宿へ戻る力さえ今の彼には残されていない。二人はやむなく、堂内で夜を越すことにした。
古びた堂内には、屋根を叩く重苦しい雨音と、微かな線香の残り香だけが沈殿している。玲玲の麗弦を奏でても、浩然の顔は闇に溶けそうなほど蒼白く、その呼吸は薄氷を踏むように危うかった。
「……大丈夫だ、玲玲。そんな顔をしないでくれ。少し休めば、明日の朝には……」
浩然は毒の激痛を喉の奥へ押し殺し、唇を震わせて微笑んだ。だがその嘘は、あまりに拙く、そして今の玲玲にとっては、あまりに無慈悲な突っぱねに聞こえた。
「……浩然様、どうして」
玲玲の瞳から、堪えていた雫が零れ落ちる。彼女は浩然の胸に顔を埋め、弱々しく波打つ彼の鼓動を、縋るようにその耳で確かめた。
「どうして、そうやっていつも穏やかな顔をして私を遠ざけるのですか。倒れていた方を助けた時と同じ、誰にでも等しいその優しさが、今はたまらなくもどかしい……!」
玲玲の震える声が、浩然の胸を刺す。
「一人で格好つけないでください。……これ以上私を、貴方の『外側』に置かないで。……私だけを、特別に求めてください……!」
その剥き出しの独占欲を含んだ言葉が、浩然の理性を粉々に砕いていく。
彼は迷いながらも、震える手で彼女の背を抱き寄せた。その腕の力は、明日をも知れぬ命を繋ぎ止めようとするかのように、狂おしいほどに切実だ。
重なり合う吐息。あと少しで唇が触れる、その極限の距離。
それは、かつて夢見た初恋の成就というにはあまりに重く、昏い情念に満ちている。
永遠の別れを覚悟するにはあまりに名残惜しく、ただ一人の男を独占したいと願う玲玲の飢えは、この密着をもってしても満たされることはない。
激しい雨音が遠のく。
世界にはただ二人の熱い体温と、いつ消えるとも知れぬ命の灯火だけが、激しく、静かに燃え盛っている。




