第19話 偽りの桃源郷
二人は紫霄山の険しい峰を西から南側へと迂回し、ある村に辿り着いた。
そこはたわわに実った作物が風に揺れる、どこまでも平和な「豊穣村」であった。
「山の麓に、これほど豊かな村があるとは……」
浩然は、周囲のあまりに瑞々しい緑に違和感を覚えたのか、独り言のように呟いた。しかし村人たちは皆親切で、見知らぬ旅人の二人を温かく迎え入れてくれた。
「このようなものしかありませんが、どうぞ」
村長の家で出された温かい粥を口にした玲玲は、その旨みに目を見張った。これまでの旅の疲れが、一口ごとに溶け出していくような感覚に陥る。
「まあ……! このお粥、驚くほど美味しいですわ。こんなに滋味深いお粥は、初めて食べました」
玲玲の素直な賞賛に、村長は慈父のような笑みを浮かべた。
しかし、浩然だけは一口食べた後、険しい表情でその「旨みの正体」を探るように黙り込んでいた。
「……失礼。村長、少し脈を診せていただけますか」
浩然が唐突に村長の手首を掴む。困惑する人々を余所に、脈を診る浩然の顔は、みるみるうちに強張っていった。
「……これを食べてはいけない。村人全員、中毒になっている!」
その一言が響いた瞬間、部屋を満たしていた温かな空気が凍りついた。村長の穏やかな笑みが、まるで出来損ないの仮面のように不自然に硬直する。
「な、何を言い出すのだ。我が家の粥に毒など入っているはずがなかろう!」
村長の声に怒りが混じる。だが浩然は、退かずに言葉を重ねた。
「この穀物には『火魂散』という毒が染み込んでいる。村人たちが異常なほど精を出して働くのは、体に漲る熱毒を労働で発散させねば、内側から焼き切れてしまうからだ」
騒ぎを聞きつけて集まってきた村人たちの間にも、どよめきが広がった。
「……紫霄山の道士様の教え通りに育てた作物だ。これを食べ始めてから、俺たちは病知らずなんだぞ!」
「そうだ、毒など入っているものか。……それより、あの道士様の予言を思い出せ」
村人たちの瞳が、じわりと濁る。
「――外から来る者は、神から授かった『黄金の活力』を奪いに来る悪鬼である。そう仰っていたではないか」
村人たちは次第に、憎悪と恐怖が入り混じった瞳で浩然を包囲し始めた。
張り詰めた殺気に気づいているのかいないのか、浩然は誠実な眼差しで村人たちへ語りかけた。
「……私は、皆さんの毒を中和する手助けができます。どうか、私を信じてください」
しかし、誰一人として浩然のもとへ歩み寄る者はいない。玲玲がハラハラしながら成り行きを見守る中、一人の老婆がふらふらと近づいてきた。
「……お婆さん、こちらへ」
浩然は、今にも血管が破裂しそうな老婆の容体を見抜き、迷うことなくその背に手を当てた。
己の命を削って内力を注ぎ込み、熱毒を中和していく。
しかし、内功を全開にすれば、連動して浩然の身の内に眠る毒が猛り狂う。全身を走る激痛に、彼は歯を食いしばり耐え忍んだ。
やがて老婆の顔色が落ち着いたのを確認し、浩然は静かに手を離した。
彼はその場に膝をつき、激しい呼吸を繰り返す。無理やり内力を使った疲弊に加え、老婆から引き受けた熱毒のせいで、彼の手は赤黒く腫れ上がっていた。
「さあ……お婆さん。これで、楽に……」
浩然が力なく、けれど安堵の微笑みを浮かべた、その時だった。
正気に戻ったはずの老婆の瞳が、禍々しい狂気に染まる。
「……あ、あああ! 私の……私の『しあわせ』を盗ったわね!」
老婆は感謝どころか、近くにあった農具を振り上げ、無抵抗の浩然の肩を全力で叩きつけた。
「皆の衆! この男が神の恵みを奪おうとしているぞ!」
村長の叫びを合図に、親切だった村人たちが一斉に鍬や石を手に取り、浩然を包囲した。
「やめて! 浩然様は皆さんを助けようとしたのよ!」
玲玲の悲鳴は、狂乱した村人たちの怒号に無慈悲に掻き消される。
浩然は襲いかかる村人たちを傷つけまいと、内力による防御を一切解き、ただ玲玲を庇うように丸くなった。
「……玲玲、逃げろ……。彼らは……操られて、いるだけだ……」
降り注ぐ石と泥の中で、浩然の衣はみるみるうちに赤黒い血と汚れに染まっていく。
泥に塗れ、自分を庇って動かなくなった浩然の背中――。それを見た瞬間、玲玲の心から「恐怖」という感情が消え失せ、代わりに氷のように冷徹な「怒り」が宿った。
彼女は震える手で麗弦を抱え直す。
(お母様……私に力を。この狂った夢を、終わらせる力を!)
奏でられたのは、かつて母が一度だけ弾いた秘曲『太古清音』。
それは激しい調べではなく、深い森の奥から湧き出る泉のような、静謐な旋律であった。
音が響いた瞬間、振り上げられた農具が止まった。毒による脳の昂ぶりが、音の振動によって強制的に鎮静させられたのだ。
ぼんやりと立ち尽くしたままの村人たちを置いて、二人は豊穣村をあとにした。玲玲は、自分よりもずっと重いはずの浩然に肩を貸し、一歩一歩、ぬかるんだ道を踏みしめる。
振り返れば、霧の向こうに紫霄山が冷たくそびえ立っている。
山全体を覆う不気味な紫の霞は、まるであざ笑う巨大な怪物の吐息のようであった。
「……見ていなさい」
玲玲の瞳には、かつての弱さは微塵もなかった。
「浩然様が守ろうとした人たちを、こんな風に弄んだこと……絶対に後悔させてやるわ」
険しい峰を見つめる彼女の隣で、浩然の微かな呼吸が、彼女の決意を後押しするように重く響いていた。
◇
激しい雨音が屋根を叩く夜。
二人は豊穣村からほど近い廃寺に身を隠していた。
夜が更けてしばらくのこと、喉の渇きを覚えて目を覚ました玲玲は、隣にいるはずの浩然の姿がないことに気づく。
「浩然様、いったいどこへ?」
不安に駆られ、軒下へ駆け出した彼女の目に飛び込んできたのは、雨の飛沫に濡れながら、うずくまって肩を震わせる浩然の背中だった。
「浩然様……っ!」
玲玲が駆け寄ると、浩然はハッとして顔を上げた。その顔は紙のように白く、口元を拭った手のひらには、どす黒い血がべっとりと付着している。
彼のまくり上げられた袖の隙間から、二の腕まで這い上がった黒い静脈が露わになっている。それはまるで、彼の命を喰らい尽くそうとする禍々しい蔦のようであった。
浩然は慌ててその手を背後へと隠し、玲玲を遠ざけるように後ずさった。
「……はは。少し、風邪をひいたかな。……玲玲、あちらへ戻って。服が、汚れてしまう」
朦朧とする意識の中で、彼はなおも兄であろうとしていた。独りで毒の激痛に耐え、血に汚れた自分を彼女に見せまいと、痛々しい微笑を浮かべて嘘をつく。
だが、いつも玲玲を守ってくれたあの大きな手は、今は冬の木の葉のように激しく震えていた。
「汚くなんかないわ!」
玲玲は拒絶を振り切り、冷え切った彼の体を力いっぱい抱きしめた。
浩然の体が、一瞬、強張る。雨の冷たさを切り裂くように、玲玲の熱い体温が、彼の凍てついた孤独を包み込んでいく。
(この人は……誰にも弱音を吐けずに、ずっと独りで戦ってきたのね)
腕の中から伝わる細かな震えを、玲玲は自らの心に刻みつけるように抱きしめ直した。
(もう、独りにはさせない。私を、貴方の「逃げ場所」にして。……私が、貴方を守る!)
玲玲の決意は、雨音にかき消されることなく、静かに染み渡っていった。




