第18話 消えぬ少年の後悔
街道へ続く山道を歩いていると、一人の女性が子供の手を引き、必死な形相で駆け寄ってきた。
「お願いです、夫を……夫を助けてください!」
「――玲玲、二人を頼む」
浩然は短く告げるなり、風のように斜面を駆け上がっていった。玲玲は困惑しながらも、震える女性を必死に宥める。
だがその時、子供が母親の手を振り切り、父親の元へ走り出してしまった。
「待って! そちらへ行ってはいけません!」
玲玲も必死にその後を追う。辿り着いた先には、目を覆いたくなるような光景が広がっていた。
十人ほどの山賊に囲まれた馬車。無残に壊された荷。そして――血の海に倒れ伏す男性の姿。
「見てはだめ!」
玲玲は反射的に子供を引き寄せ、その小さな頭を胸に抱きしめた。
山賊たちは下卑た笑みを浮かべ、男性を抱き起こした浩然を取り囲む。
「おい、兄ちゃん。そいつは俺たちの獲物だ。有り金全部置いていきな」
浩然は無言のまま、男性を静かに地面へ横たえた。
――その、刹那だった。
「ぐっ……はっ……あ……っ」
悲鳴にさえならない音が重なった。まばたきをする間もなかった。山賊全員の体から一斉に鮮血が噴き出し、屈強な男たちが、糸の切れた人形のように次々と地面に沈んでいく。
「え……っ? 何が、起こったの……?」
玲玲の問いに応える者はいない。
浩然の顔は紙のように白く、その表情は何かを必死に堪えているように見えた。彼は無言のまま、重傷の男性を背負って荷台へ運び、力強く馬の手綱を引いて歩き出す。
「……行こう」
母子は慈孝鎮にある商店の使用人であった。二人の身柄を無事に店まで送り届けると、家主は深く頭を下げた。
「阿吉のことは……誠に、かける言葉もございません。ですが、この二人を無事に連れ戻してくださったこと、心より感謝いたします」
せめてもの礼にと、家主は宿泊を申し出たが、浩然は「先を急ぐゆえ」と頑なにそれを固辞した。
代わりとして差し出された路銀の銀子を受け取り、踵を返そうとした、その時だ。
父を亡くした少年が、浩然の裾を力なく掴み、「お兄ちゃん、ありがとう」と小さく呟いた。
浩然は少年の視線に合わせてゆっくりと膝をつき、その頭を愛おしそうに撫でた。
明湖府で見せた、一人の女を守る「男」としての強靭さ。そして、目の前の少年を労わる「兄」としての慈しみ。その背中を見つめる玲玲の胸には、抗いようのない愛しさがこみ上げてくるのであった。
宿を後にした浩然の気配は、いつもよりずっと静かで、どこか重い。
玲玲は心配から横目で幾度も確認するが、彼は何かを堪えるように無言のまま歩みを進める。
――しかし。
道中、玲玲が靴擦れを起こし、あまりの痛さに足を止めてしまった、その瞬間だった。
「玲玲! 大丈夫か!? すぐに薬を……!」
さきほどまで、自らを蝕む毒の苦しみに耐え忍んでいたはずの男はどこへやら。浩然は血相を変えて駆けつけ、震える手で玲玲の足首を取った。
己の命を削る猛毒には一言の不満も漏らさぬくせに、彼女の足にできた小さな傷には、天が落ちてくるかのような勢いで狼狽え、薬を塗り込んでいく。
「ただの靴擦れですわ。浩然様、そんなに心配なさらないで」
浩然は、玲玲の靴擦れを丁寧に手当てし終えた後も、その白く細い足をそっと包み込むようにして、しばらく動かずにいた。
「浩然様……? もう痛みは引きました。そんなに暗いお顔をなさらないで」
玲玲が不安げに覗き込むと、浩然はハッとしたように、憑き物が落ちたような顔で微笑んだ。だが、その瞳の奥には、今も消えない暗い影が沈んでいる。
「……すまない。君が傷つくのを見ると、どうしても、あの時の光景が脳裏をよぎるんだ」
浩然は視線を落とし、自らの掌を虚しく握りしめた。
「私は母を守るどころか手を差し出すこともできなかった。」
彼の横顔は、いつもの冷静な武芸者のものではなく、あの日から一歩も動けずにいる少年のように見えた。
「だから……今の私にとって、君の小さな傷は、私自身の不調よりも恐ろしい。この掌には、今、君を守れるだけの力が宿っている。それなのに、もしまた何かを損なわせてしまったら――そう思うと、正気ではいられなくなる」
浩然は、絞り出すような声で続けた。
「兄君のところへ戻るその日まで、君を完璧に守りたい」
玲玲はそっと手を伸ばし、震える彼の拳を包み込んだ。
「浩然様……。私は、あの時のお母様ではありません。そして貴方はもう、隠れているだけの子供でもありませんわ。私を、信じてください」




