第17話 市場の喧騒と、芽生える独占欲
若旦那の一件以来、浩然の態度は目に見えて硬くなっていた。
ふと目が合っても弾かれたように視線を逸らされ、移動中に指先が触れれば、火にでも触れたかのような勢いで手を引っ込められる。
(私、何か怒らせるようなことをしてしまったのかしら……)
愛想を尽かされたのではないかと玲玲が落ち込む中、明湖府の街では大規模な市が催され、通りは身動きが取れぬほどの混雑を見せていた。
(せめて美味しいものでも食べて、浩然様の機嫌が直ればいいのだけれど……!)
「浩然様! 水餃子がありますわ。あそこには焼餅も!」
玲玲は努めて明るく振る舞い、人混みを縫うように歩みを進める。しかし、あまりの喧騒に足元を掬われそうになった、その時――。
「危ない……っ!」
鋭い声と共に、強い力が玲玲の腰を抱き寄せた。
浩然の逞しい胸板に、顔が埋まるほどの勢いで引き込まれる。
普段ならすぐに「すまない、大丈夫かい?」とおどけて離れるはずの彼が、その時は違った。数秒経っても、十数秒が過ぎても、自分を閉じ込める腕の力は強まるばかりで、一向に離してくれる気配がない。
騒がしい市場の喧騒が遠のき、耳元で浩然の低く、切実な吐息が漏れた。
「……勝手に、どこかへ行かないでくれ。君がいなくなったら、私は……どうしていいか分からなくなる」
その掠れた声には、これまでの「兄貴分」としての余裕など微塵もなかった。ただ一人の男としての、剥き出しの本音が滲み出ている。
腕の中から伝わってくるのは、自分を離したくないという強烈な執着。重なり合う心臓の音が、どちらのものか判別がつかないほど激しく、速く、高鳴っていた。
玲玲の思考は、真っ白に塗り潰された。
彼女は今、生まれて初めて「守られるべき妹」としてではなく、この男の人生を狂わせかねない「一人の女」として扱われている自分を、鮮烈に自覚するのだった。
浩然は我に返ったようにハッと腕を解くと、顔を真っ赤に染め、弾かれるように距離を置いた。玲玲は、まだ腰に残る彼の掌の熱さをそっと手で確かめながら、高鳴る鼓動を静めることができずに立ち尽くしていた。
市場の喧騒の中、先ほどの熱烈な抱擁が幻だったかのように、浩然はまたしても見知らぬ男の身の上話に捕まっていた。挙句の果てに、懐からなけなしの小銭入れを取り出そうとする始末だ。
「浩然様! またそうやって簡単に……! そのお金、明日の宿代にする予定だったのですよ?」
玲玲が割って入り、彼の腕をひっつかんで制止する。
「はは、面目ない。だが玲玲、あの方の実家の猫が重い病だと言うから、どうしても放っておけなくて……」
「猫ですって!? ……もう、あからさまな嘘に決まっていますわ! 私がついていなければ、今頃貴方は路頭に迷って野宿することになっていたんですからね!」
玲玲はふくれっ面で腰に手を当て、幼子を叱る母親のように浩然を睨みつける。
さきほど彼女を「一人の女」として震えさせた男はどこへやら、今の浩然は「面目ない、面目ない……」と情けなく頭をかくばかり。
周囲からは仲睦まじい兄妹にしか見えないそのやり取りこそが、二人の愛すべき日常であった。
だが、浩然を叱り飛ばしながらも、玲玲の手は先ほどよりも少しだけ強く、彼の衣の袖を握りしめていた。もう二度と、あきれるほど優しいこの背中を見失わないように。
浩然は、叱られながらも自分の袖を掴む彼女の手の温かさに気づき、困ったように眉を下げながらも、心の底から嬉しそうに小さく目を細めるのであった。
果てなき旅路の中で、二人の心は、いつしか抗いようもなく惹かれ合っていった。
玲玲の奏でる琵琶の音色は、猛毒に蝕まれ、孤独な闇に沈みかける浩然にとって、明日を繋ぎ止める唯一の希望となった。
そして浩然の放つ鋭き機転と武の冴えは、剣を持たぬ玲玲をあらゆる災厄から守り抜く、金剛不壊の盾となった。
互いの欠落を埋め合わせるように重なる二人の運命。それはもはや、単なる旅の道連れという言葉では語れぬほど、深く、密やかに結ばれ始めていた。
◇
運河沿いの茶館では、講談師が語る風変わりな噂話に人々が色めき立っていた。
「……信じられぬ光景だった。現れたのは三人の奇妙な連れ。一人の白皙の美男が、神がかり的な計算で賭場を瞬く間に制圧すれば、青い貴公子は風流な笑みで客の女性たちを虜にし、裏の情報をすべて吐き出させた。
最後は連れの女傑が、逆上した用心棒たちをまとめて窓から運河へ放り投げたそうだ。翌朝、賭場の隠し金はすべて貧しい民へとばら撒かれていたという……」
茶を啜っていた玲玲は、思わず身を乗り出した。
「まさかこの青い貴公子と女傑は、兄様と烈華姉様のことでは!?美しい白公子、神がかり的な計算……。もしかして、鳳嵐様のことかしら」
「鳳嵐様とは? 玲玲の知り合いかい」
対面に座る浩然が、穏やかに問いかける。
「ええ。彼は私が浩然様と出会う前、天枢城から臥星鎮まで共に旅をしていた方ですわ。とても生真面目ですが、頭の切れるお方で……」
「……ああ、思い出したよ。最初に君を助けた時、隣にいた貴公子だね」
浩然は淡く微笑んだが、その胸の奥では、これまで経験したことのない苦い熱がチリリと音を立てて爆発した。
(――あの、白衣の公子か)
脳裏に蘇ったのは、一度だけ目にした鳳嵐の姿だ。気品に満ちた佇まい、揺るぎない自信、そして何より、名門の令嬢である玲玲の傍らに立って微塵の違和感もなかった、あの輝くような「正統さ」。
それに引き換え、今の自分はどうだ。剣の道を捨て、身の内には逃れられぬ毒を飼い、影を歩むようにして生きる男。
(彼なら、彼女を日向の世界で幸せにできる。私のような、明日をも知れぬ薬売りではなく……)
浩然は無意識に、卓の下で自分の掌を強く握りしめた。玲玲の過去に、自分以外の「ふさわしい男」が刻まれている。その事実が、彼の研ぎ澄まされた理性をじりじりと焼き焦がしていく。
「鳳嵐様も無事なら良かったです。お兄様も、彼がいれば少しは落ち着いてくれると良いのだけれど……」
安堵の溜息を吐く玲玲の、その無垢な横顔。
浩然は、喉の奥にせり上がってきた「彼は君にとって、どんな存在だったのか」という醜い問いを、苦い茶と共に強引に飲み込んだ。
「……三人組は、紫霄山を越えてさらに南方に向かったようだな。私たちも急ごう」
浩然は思考を切り替えるように立ち上がる。
「……紫霄山は、あまり良い噂を聞かない場所だ。時間はかかるが、山を迂回して南へ向かおう。……さあ、行こうか、玲玲」
浩然は努めていつもの優しげな声を装ったが、彼女の背を押すその手には、自分でも気づかないほどの力がこもっていた。それは、過去の影から彼女を連れ去ろうとするような、切実で、少しだけ強引な独占欲の現れであった。




