第16話 明湖府のせせらぎ、揺れる心
路銀の確保と薬草の調達を終えた二人は、星宇と烈華の本格的な聞き込みを開始した。すると、予想だにしない形でその行方を知ることとなる。
「……ああ、あの二人連れかい。少し前のことだが、あそこの酒楼でとんでもない騒ぎがあってね」
市場の露天商の男は、遠い目をして語り出した。
曰く、酒楼で扇子を揺らす風流な青い公子が、数人の女性たちと談笑しながら酒を酌み交わしていたのだという。そこへ、連れの女性と思われる女傑が烈火のごとく激怒しながら乱入。店を半壊させんばかりの勢いで大立ち回りが始まり、結局二人は風のように去っていった。
店の者が慌てて駆けつけると、卓には食事代と、それを優に上回る修理代金が整然と置かれていたそうだ。
「ただの痴話喧嘩かと思ったが、あの身のこなし、どう見ても只者じゃねえよ」
露天商は、当時の光景を昨日のことのように思い出し、しみじみと頷いている。
男の話を聞きながら、玲玲の顔はみるみる引きつっていった。
その後も聞き込みを続け、件の二人はさらに南の明湖府へ向かったことが判明する。
道中、身内の恥ずべき痴話喧嘩の詳細を何度も聞かされる羽目になった玲玲は、疲労の色を隠せず浩然に零した。
「……二人の目立ち具合が、どんどん酷くなっていますわ。兄様ったら、また烈華姉さまを怒らせるような真似をして……。でも、あの鮮やかな逃げ足の速さは、間違いなく兄様です」
玲玲は深いため息を一つ吐くと、急にキッと表情を引き締めた。
「浩然様、急いで追いかけましょう! そして、兄様に一言……いえ、十言は申し上げてやりますわ!」
鼻息荒く、小さな拳を振り上げる玲玲。浩然は、彼女のそんな様子を苦笑しながらも見守っている。二人は早速、騒がしい兄たちの影を追って明湖府へと足を進めた。
◇
玲玲の急き立てるような勢いに押され、二人は数日のうちに「泉の都」と謳われる明湖府へと辿り着いた。
そこは、柳がしなやかに湖畔に垂れ下がり、美しい石橋の袂を小舟がゆったりと行き交う、絵画のような街だった。千を超える泉が湧き出ると言われる通り、至る所で清冽な水が噴き出し、陽光を跳ね返して輝いている。
「碧水府も水路が巡る街でしたけれど、ここは文字通りの水の都ですわね」
玲玲は珍しそうに、あちらこちらへと視線を躍らせている。浩然はその輝く横顔を盗み見て、慈しむような笑みを浮かべた。
「玲玲、一度あの店に薬草を卸してくる。少しの間、店先で待っていてくれるかい」
玲玲は素直に頷き、軒先を流れる水路のせせらぎを眺めていた。すると、近所の子どもたちが物珍しそうに駆け寄ってくる。
「お姉さん、その包みには何が入っているの?」
「ここにはね、私の大切な宝物が入っているのよ」
玲玲が微笑んで答えると、子どもたちは目を輝かせて中身をせがんだ。彼女がそっと麗弦を取り出すと、六つの瞳がいっせいに釘付けになる。
「琵琶だ! お姉さん、弾いてみてよ」
せがむような無垢な視線に、玲玲は困ったように辺りを見回し、「少しだけよ」と告げて弦を爪弾いた。
澄んだ美しい音色が響き渡る。通りを行く人々だけでなく、水路をゆく舟人までもが思わず手を止めて振り返った。
短い曲を弾き終えると、子どもたちの歓声に混じって、傲慢な男の声が割り込んできた。
「ほう、いい琵琶を弾くじゃないか。どうだ、俺の屋敷の専属にならないか?」
現れたのは、刺繍を凝らした豪華な衣装に身を包んだ三十代ほどの男だった。数人の従者を連れたその様子からは、この地を仕切る有力者の若旦那であることは明白だった。
ちょうど商いを終えた浩然が薬屋から出てきた時、目にしたのは、若旦那が横柄な笑みを浮かべ、強引に玲玲の手首を掴み引き寄せようとする場面だった。
いつもなら「まあまあ、若旦那、そう急かさずとも……」と、揉み手をせんばかりに下手に出るはずの浩然だったが、この時は違った。
彼は一切の言葉を発さず、風を斬るような速さで二人の間に割り込む。
そして、若旦那の手首を冷徹に掴み返した。
痛みを感じさせるほどではない。だが、重石を載せられたかのように、指一本分さえ動かせぬ強固な力がそこにはあった。
「……すみません。この娘、私が見ていないと、すぐに道に迷ってしまうのです」
紡がれたのは、いつもの保護者らしい言葉。しかし、その声は地を這うように低く、氷のような冷たさを帯びていた。細められた瞳の奥には、気さくな薬売りの影など微塵もなく、ただ獲物を射抜くような鋭い光が宿っている。
「――ですから。どこへも行かせるわけにはいかないのですよ」
その圧倒的な威圧感に、若旦那は蛇に睨まれた蛙のように顔を引き攣らせ、捨て台詞を残して逃げるように去っていった。
静寂が戻り、玲玲はおそるおそる浩然の顔を覗き込む。
「浩然様……怒っていらっしゃいますの?」
その声に弾かれたように、浩然はハッとして手を離した。
「……いや。……その」
彼は急に耳を赤く染め、逃げるように視線を逸らした。
「……あのように、無作法に触られるのは危ないから。……私、以外には……あのようなことをさせてはいけないよ」
最後の方は、消え入りそうなほど小さな呟きだった。
(浩然様は、純粋に私の身を案じてくださっただけだわ)
玲玲は自分にそう言い聞かせる。しかし、単なる心配とは言い切れない、剥き出しの独占欲が込められていたような気がして、彼女の鼓動は跳ね上がった。
浩然は、玲玲を解放した自らの掌をじっと見つめ、そこに残る熱を振り払うかのように、ただ一度だけ、強く拳を握りしめた。




