第15話 愛の逃避行と無自覚な誘惑
二人はまず、薬草を求めて東の山へと分け入った。浩然の熱心な指導の下、玲玲も籠を背負って慣れない手つきで草を摘む。
「危ない……っ!」
「きゃっ!?」
唐突に、浩然が玲玲を地面へと押し倒した。刹那、一筋の銀光が彼女の髪をかすめて通り過ぎ、背後の巨木に深々と突き刺さる。
「吹き矢か……こちらへ!」
浩然に促され、玲玲は混乱したまま木陰へと身を潜めた。
背後の茂みが不気味に波打ったかと思うと、黒衣に仮面を纏った男が軽功で虚空を切り裂き、音もなく肉薄してくる。
浩然はすかさず、内功を込めた石礫を弾丸のごとき速さで放ち、男を牽制した。彼は一瞬毒の激痛に顔をゆがめるが、玲玲の腰を抱え、一気に駆け出す。
「舌を噛まないよう、しっかり捕まっていろ!」
玲玲は言われるがまま、浩然の逞しい体に必死にしがみついた。
だが、森を抜けた先に待ち受けていたのは、底も見えぬ断崖絶壁であった。退路を断とうと迫る仮面の男。
「……私を信じて」
浩然が低く告げた直後、二人の体は断崖から虚空へと投げ出された。
浩然の意識は、極限まで研ぎ澄まされていた。
(――風を読み、あそこの枝を足場に……内力を足裏へ集中させる! 一寸でも狂えば、二人まとめて砕け散る!)
額に冷汗を滲ませ、地形を瞬時に解析して最適な着地点を算出する。それはまさに、死線を潜り抜ける武芸者の姿であった。
一方、その腕に抱かれた玲玲の脳内では、全く別の光景が爆発していた。
(……きゃあああ! これぞ恋物語の極致、究極の『空中抱擁』! 吹き荒ぶ風は祝福の嵐、舞い散る葉は……そう、情熱の桃花! 伝わってくる浩然様の激しい鼓動……これは、私への愛の高鳴り……?)
実際にはただの「死に物狂いの心拍数」なのだが、今の玲玲にはそれさえも至高の甘露であった。
浩然は凄まじい脚力で衝撃を逃がし、砂埃と共に地面へと鮮やかに着地した。
「玲玲! 怪我はないか!? どこか打っていないか!」
必死の形相で彼女の肩を掴み、安否を確認する浩然。しかし玲玲は、うっとりとした表情で頬を染め、夢見るような溜息を漏らした。
「……浩然様。とっても素敵でしたわ。……ねえ、もう一度飛んでくださる?」
浩然は、石像のごとく硬直した。
「…………な、なんだって?」
直後、彼は血相を変えて彼女の手首を掴み、脈を取り始めた。
(いけない、落下の衝撃か恐怖で、脳に気が逆流したのか!? あるいは精神が錯乱を……! 玲玲、しっかりするんだ! 薬だ、すぐに鎮心の処方を見つけねば……!)
必死に診断を始める浩然と、その腕の中で「もっと、ときめきをくださいまし……」と身悶えする玲玲。
二人の住む世界は、崖の下でも相変わらず、決定的にズレたままなのであった。
◇
追っ手を振り切ったことを確認し、二人は一旦、碧水府の喧騒へと紛れ込んだ。
「まずは腹ごしらえといこうか」
浩然は手に入れた大量の薬草を抱えていたため、玲玲に昼食の調達を頼んだ。
玲玲は「お任せください!」と意気込んで銅貨を握りしめ、市場へ向かう。彼女は土地の美味をいくつも買い込んだ。
「浩然様、これ、とっても美味しいですわ!」
玲玲が弾んだ声で駆け寄ってくる。
普段の浩然であれば、「自分で食べられるから気にするな」と年長者らしい余裕の笑みを見せるところだ。しかし今の彼は、両手いっぱいに貴重な薬草を抱え、指一本動かせぬ状態であった。
そんな彼を見て、玲玲は迷うことなく、自らの箸で一口大の獲物――熱々の点心を挟み、彼の口元へと運んだ。
「ほら、あーんです。兄様にもよくこうして差し上げていましたから、恥ずかしがらないでくださいな!」
浩然にとって、母以外からこのような仕草を向けられるのは生まれて初めての経験だった。年下で、守るべき庇護対象だと思っていた玲玲に食べ物を運ばれる。それは、武芸者としての誇りが揺らぐような、奇妙な羞恥を伴う行為だった。
(――落ち着け。私は兄貴分だ。彼女にとっては、実の兄と同じ家族のような存在なのだから)
浩然は己に言い聞かせ、動揺を抑え込もうとした。
だが、眼前の現実はあまりに過酷だった。
期待に満ちたひたむきな瞳。一生懸命に箸を操る、白く細い指先。そして、至近距離で艶やかに綻ぶ、桜色の唇。
無防備かつ猛烈な「無自覚の熱量」を浴びせられ、浩然の脳内回路は一瞬で焼き切れた。
「……っ、あ、あむ」
浩然は耳まで真っ赤に染め、逃げ出すようにその塊を口に含んだ。
もはや味わう余裕など微塵もない。噛んでいるのか飲んでいるのかも分からぬまま、熱い塊を強引に喉の奥へと流し込む。
「……っ、……旨い」
味も分からないまま喉を焼くような緊張感の中、浩然は石のごとく硬直してしまった。
一方の玲玲は、「あら、そんなに急がなくても……よほどお腹が空いていらしたのね」と、満足げに微笑んでいる。
浩然は、麻痺した思考の片隅で
(もう二度と、彼女に『あーん』をさせてはならない……)
と、理性を守るための、悲壮なまでの決意を固めるのであった。




