第14話 面紗の琵琶弾き
浩然の体調が思わしくないまま、一行は水の都・碧水府へと辿り着いた。水路が街中を巡り、至る所に美しい柳の並木と酒楼がある。
しかし、二人にはその景色を楽しむ余裕などない。薬の調達もままならず、路銀も底を突きかけているのだ。
「碧水府の東には豊かな山がある。……少し、薬草を採ってくるよ」
浩然はいつもの軽い調子を装うが、その顔色は紙のように蒼白く、立っているのさえやっとの様子だ。
「そのお体で山へ行くなど、絶対にいけません!」
玲玲は毅然とした表情で制止するが、浩然も苦渋の表情で首を振る。
「だが、ここの宿代は高い。このままでは今夜の屋根さえ危ういんだ」
その時、玲玲の瞳が光を帯びた。
「……私に、考えがあります」
玲玲の脳裏には、道すがら耳にしたある噂が浮かんでいた。
(雑技師の皆さんが仰っていたように、私の琵琶もお金の足しになるかもしれないわ)
胸に抱えた麗弦を、玲玲はそっと指先で撫でた。浩然を支えたいというひたむきな思いが、彼女を未知の舞台へと駆り立てる。
玲玲は、これまでの旅路では荷の奥に仕舞い込んでいた衣服を丁寧に取り出した。
薄衣を纏い、髪に一輪の簪を差せば、旅の垢は消え去り、そこには凛とした気品を湛える令嬢の姿があった。
(私の琵琶の腕前で通用するかしら。でもやるしかないわ)
疲弊した浩然を宿でゆっくりと休ませ、十分な薬と食事を得るための路銀を稼がねばならない。玲玲は麗弦を抱え、決意を胸に『桜風楼』の門を叩いた。
◇
桜風楼の主人は、玲玲の姿とその琵琶の腕前を目の当たりにし、驚愕に目を見開いた。
「なんと可憐な……。これほどの美貌と音色が知れ渡れば、街中の野郎どもが黙っておらんでしょう。……いやはや、旦那様が心配なさるのも無理はございませんな」
主人は、隣で険しい顔を崩さない浩然を「若旦那」だと思い込み、一人で合点がいったように笑っている。
いかにも深窓の令嬢然とした玲玲と、粗末な着物ながらも隠しきれぬ気品を纏う浩然。二人は訳あって身分を隠し、駆け落ち同然で旅をする若夫婦――主人の脳内では、すでにそんな物語が完成しているようだった。
玲玲が慌てて否定しようとしたが、それよりも早く、浩然が真面目な顔で主人に詰め寄った。
「……演奏中、彼女には常に顔を隠す面紗を着用させることが条件です。よろしいですね」
断固とした口調。浩然は玲玲の耳元に寄せ、低い声で囁いた。
「……追手に顔を知られていたら危ないからね」
その言葉は正論だったが、彼の瞳の奥には、危機管理だけでは説明のつかない焦燥のような色が混じっている。玲玲は少し照れ臭そうに頷き、薄い絹の面紗を手に取るのであった。
◇
初日の演奏は見事なものだった。玲玲が奏でる麗弦の調べは、集まった客たちを陶酔させ、彼女は惜しみない称賛と、ずっしりと重い謝礼の袋を受け取って店を後にした。
外はすっかり夜の帳が下り、碧水府の街並みは川面に映る灯火で幻想的に彩られている。
(……代わりの弾き手が見つかるまで、まだ数日はかかりそう。これなら、浩然様の薬も宿代も心配いらないわ)
手の中にある重みに顔をほころばせながら、玲玲は弾むような足取りで夜道を行く。
だが、不慣れな夜の街。路地の陰から、酒気を帯びた男たちが這い出すように現れた。
「お嬢ちゃん、こんな夜更けに一人かい? 面紗越しでも美人とわかる。宿まで送ってやろうか、遠慮しなくていいぜ」
男たちはニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、じわじわと距離を詰めてくる。
しかし、深窓の令嬢として育ち、世俗の毒を知らぬ玲玲は、その下心を微塵も疑わなかった。
「まあ、ご親切に。では、お言葉に甘えて……」
玲玲が素直に頷きかけた、その時だった。
「……私の連れに、何か用かな?」
背後から響いたのは、いつもの穏やかな薬売りとは似ても似つかぬ、地を這うような低く冷徹な声だった。
驚いて玲玲が振り返ると、そこには宿で休んでいたはずの浩然が立っていた。月の光に照らされた彼の瞳は、薄氷のような鋭さを帯び、男たちを射抜いている。その瞳に宿る静かな気迫に圧され、男たちは舌打ちしながらそそくさと闇へと消えていった。
玲玲が驚きから何も言えずにいると、浩然は険しい表情を隠そうともせずに溜息をついた。
「浩然様。わざわざお迎えに……?」
「……玲玲。夜道は何があるか分からないと言っただろう。これからは、私が迎えに行くまで店の中で待っていなさい。いいね?」
少しだけ語気を強めた彼の言葉には、単なる用心だけではない、切実な焦燥が混じっているようだった。
「……はい。次からは、必ず待っています」
浩然が自分をこれほどまでに案じてくれている。そのことが純粋に嬉しく、玲玲は温かな気持ちで素直に頷く。
(全く、君という人は。無防備にも程がある……)
浩然は心中で深いため息をつきながらも、夜道の段差で彼女が躓かぬよう、そっとその歩調を緩めて隣を歩き続けるのであった。
◇
宿での静養と、玲玲が真心を込めて奏でる琵琶の調べ、そして苦心して調達した薬が功を奏したのだろう。浩然の体調は、日に日に目に見えて快復へと向かっていった。
浩然が養生する数日の間、玲玲は『桜風楼』の舞台に立ち続け、二人の懐には、次の旅路を支えるに十分すぎるほどの路銀が蓄えられていた。
月光を跳ね返す水面にせり出した、桜風楼の特等舞台。
そこで琵琶を奏でる玲玲の姿は、見る者を幻惑するほどの気品に満ちていた。見事な指さばきに客たちが感嘆の声を漏らし、どよめきが広がる中、浩然は客席の隅でひっそりと彼女を見守っていた。
(……玲玲の音は、ここの水のようにどこまでも澄んでいるな)
目を細め、穏やかな笑みを浮かべる浩然。
しかし、その賑わう客の中には、二人を監視する「冷徹な眼差し」が混じっていた。
笠を深く被り、周囲の浮かれた空気から切り離されたかのような黒衣の男。その男の視線は、演奏に打ち込む玲玲の喉元を、獲物を狙う蛇のようにじっと見据えていた。
◇
「玲玲さん、君さえ良ければ、このまま店に残って琵琶を弾き続けてはくれないか……?」
別れ際、店主は名残惜しそうに彼女を引き留めた。
「光栄なお誘い、心より感謝いたします。ですが私は旅の身。共に行くべき人がおりますので」
玲玲は隣に立つ浩然を意識しながら、凛とした微笑みで応えた。いつかまた碧水府を訪れた際には必ず立ち寄ると約束を交わし、彼女は賑やかな店を後にした。
「……しばらくは、体調のことで心配をかけてしまったね。おかげで心身ともに、もう万全だよ」
浩然の頬には血色が戻り、その瞳にはかつての鋭さと穏やかさが同居している。玲玲は彼の顔を覗き込むと、安堵の溜息をついた。
「本当によかったです。浩然様、しばらくはご自分もしっかり食べて、休める時には休んでくださいね。約束ですよ?」
「ああ、玲玲が頑張って路銀を稼いでくれたからね。これからはその言葉に甘えて、美味いものをたくさん食べるとしよう」
浩然は悪戯っぽく笑い、彼女が背負おうとした琵琶の包みをひょいと肩に担いだ。
「さあ、これからは私の番だ。君をしっかり守って、目的の場所まで連れて行く」
差し出された浩然の手を、玲玲は迷うことなく取った。二人の足取りは、碧水府の澄んだ水面を渡る風のように、どこまでも軽やかだった。




