第13話 見返りのない慈愛
碧水府への道中も浩然はありとあらゆる人の世話を焼き続けた。しかし浩然の「お節介」は、常に感謝されるわけではなかった。
拾った仔犬の飼い主を探せば「余裕などない」と罵声を浴びせられ、迷子を親元へ送り届ければ、かえって誘拐の疑いをかけられ突き飛ばされるのこともあった。
それでも浩然は、翌日にはまた別の誰かのために走り回る。
その夜、彼は唯一の食糧であった饅頭を物乞いの子供に譲り、自身は一晩中腹の虫を鳴らしていた。
蒼白い月を見上げ、ひもじさを誤魔化すように寂しげに微笑む彼を見て、玲玲はたまらず問いかけた。
「……浩然様、どうしてそこまで。貴方を傷つける人たちまで、なぜ救おうとするのですか?」
浩然はしばらく沈黙した後、ぽつりと漏らした。
「……母を亡くした時の話をしただろう。あの日、私はただ、母の後ろに隠れて震えていただけだった」
「それは、仕方のないことですわ。貴方はまだ、子供だったのですから」
玲玲の慰めに、浩然は自嘲気味に、力なく笑った。
「救えなかった母の分まで、誰かを救いたい――そう思っているのかもしれないな」
だが、その瞳の奥には、言いようのない昏い闇が揺れていた。
浩然の脳裏には今も、鮮明な光景が焼き付いている。賊に襲われ、血を流し力尽きていく母の姿。言いつけ通りに身を隠し、呼吸さえ殺して、ただそれを見ていることしかできなかった幼き日の自分。
『もっと強ければ』『せめておとりにさえなれていれば』――その烈火のような後悔が、今も彼を自己犠牲へと駆り立てる。
毒に侵され、体が動かなくなることを彼がこれほどまでに恐れるのは、死が怖いからではない。動けなくなることは即ち、あの日、母を見殺しにするしかなかった「無力な子供」に戻ることを意味するからだ。
玲玲は、彼の穏やかな微笑みの裏にある、血を流し続けるような傷跡に気づいてしまった。
彼の優しさは、慈愛ではなく、自分を許せないがゆえの「痛み」に基づいている。
(ああ、この人は。……自分を救うために、誰かを救い続けているのだわ)
玲玲の胸の奥が、ちりちりと焼けるように痛んだ。
憧れていた「強い背中」が、今は守ってあげたいほどに脆く、愛おしいものに見えていた。
毒に侵された身体での休む間もない旅路は、浩然の心身を確実に削り取っていた。表向きは普段通りの飄々とした態度を崩さない彼だったが、ふとした瞬間の眼差しや、わずかに乱れる呼吸の端々に、隠しきれぬ疲労が滲んでいる。
玲玲は、そんな彼の背中をずっと案じていた。
宿へ着き、部屋の灯が静かに揺れるなか、彼女は迷うことなく愛用の琵琶「麗弦」を引き寄せた。その指先が弦を弾くと、部屋の隅々にまで、染み入るような清らかな旋律が満ちていく。
浩然の顔色に浮かぶ土気色の陰りを見逃さず、彼女は奏でる手を止めることなく、真っ直ぐに彼を見つめて告げた。
「浩然様……貴方が苦しげな顔をされていると、私の胸も、同じように痛むのです。だから、どうか今は無理をなさらず、この音色に身を委ねてください」
浩然は、打ちのめされたような衝撃とともに、言葉を失った。
母を失ったあの日から、彼は常に「与える側」であった。誰かの痛みを肩代わりし、誰かの涙を拭い、そうすることでしか己の存在を許せなかった。彼にとって、人助けは義務であり、自己犠牲は日常だったのである。
しかし今、目の前の少女は、彼が「何をしたか」ではなく、ただ「浩然であること」を慈しみ、その痛みを分かち合おうとしている。
何の見返りも、大義もない、無条件の慈愛。
その温かさに触れた瞬間、浩然の胸を締め付けていた鉄の戒律が、音を立てて軋んだ。
(ああ、私は……誰かに案じられることなど、とうに諦めていたはずなのに)
浩然は、熱い何かが込み上げてくるのを必死に堪え、静かに目を閉じた。
玲玲が奏でる琵琶の音色は、毒に蝕まれた経絡を伝い、彼が何年も凍らせていた心の最深部を、優しく、確かに溶かしていくのであった。




