第12話 おかしな病と奇妙な薬 後編
その時、広場の入り口に数人の黒衣の道士たちが姿を現した。胸元に紫微の紋を戴くその姿を見るやいなや、人々は潮が満ちるように、地を這うような勢いで彼らの足元へ群がった。
「道士様! 昨日いただいた霊薬のおかげで、この通り病も消え去りました!」
「おお、生き神様だ。どうか、どうか我らをお導きください!」
口々に縋り付く民衆を見下ろし、道士の一人が慈悲深い笑みを浮かべて口を開いた。
「皆さんの苦しみが癒えたこと、我がことのように嬉しく思います。しかし、油断は禁物です。邪気を完全に払い落とすまで、数日はこの薬を服用し続けねばなりません」
道士の手から、小瓶が次々と手渡される。人々はそれを「神の恵み」と崇め、奪い合うようにして受け取っていた。その光景は、救済というよりは、狡猾な罠に落ちた獣の群れのようであった。
浩然は迷いのない足取りで、道士たちの前にふらりと歩み出た。
「その霊薬、実に見事な香りだ。芳醇な甘みの中に、微かに混じる硫黄の刺激……絶妙な調合と言わざるを得ないな」
その言葉が投げかけられた瞬間、道士たちの間に戦慄が走った。浩然は、彼らの穏やかな「聖者の呼吸」が、一瞬にして殺気を孕んだ「武芸者の呼吸」へと変わったのを逃さなかった。
道士が動くより速く、浩然は鮮やかな身のこなしで霊薬の包みを奪い取る。
「貴様! 何をする!」
怒号が飛ぶが、浩然はそれを冷ややかに制した。
「おや、慈悲深い道士様がなぜそれほど血相を変えられる。……何か後ろめたいことでもあるのですか」
道士たちが言葉を詰まらせる傍らで、禁断症状に駆られた人々が「何をしてるんだ、早く薬を返せ!」と殺気立ち始めた。
「皆さん、この薬の真実をお見せしよう」
浩然は奪った薬を傍らの家畜用の水桶に投じ、その水を牛に飲ませた。すると次の瞬間、牛は瞳を血走らせ、狂ったように暴れ回り始める。
「これこそが薬の正体だ。夏でもないのに体が焼け付くのは、皮膚が過敏になり衣が擦れるだけで痛むのは、すべてこの霊薬に含まれる『熱毒』の仕業なのだ!」
広場を凍り付くような静寂が支配した。人々が疑念の目を道士たちに向けようとした刹那、彼らはもはやこれまでと見たか、軽功を駆使して鳥のように跳躍し、屋根を越えて闇の向こうへ消え去った。
「まさか、昨日の病もあいつらの……」
「救い主だと思っていたのに、毒を盛られていたというのか。……俺たちは、どうすればいいんだ!」
「今はただ、熱を逃がすのです。歩き回り、風を浴びて体の芯の熱を散らしなさい!」
浩然の指示に従い、人々は夜通し歩き続け、あるいは水に浸かって狂乱を鎮めようとした。玲玲と小蛍も奔走し、市場で買い集めた緑豆や瓜など、解熱効果のある食材を配り歩いた。
だが夜の帳が下りる頃、熱毒を散らし終えた人々を、今度は激しい悪寒が襲った。顔色は土色に沈み、立っていることさえままならない。
「五石散の効果が切れたのだ。ここからが本当の正念場だ。どうか耐えてくれ」
浩然の言葉も、苦痛に喘ぐ人々には届かない。玲玲は、医術の心得がない自分に歯がゆさを感じながらも、ただ見ていることはできなかった。
(私にできることが、一つだけあるとしたら――)
玲玲は愛用の琵琶「麗弦」を抱え、静かに弦を弾いた。
澄んだ音色が夜の闇を切り裂き、広場に響き渡る。それは、母から教わった琴譜。玲玲が無心で奏でる旋律は、波紋のように人々の心へ染み渡っていった。
「不思議だ。……この音を聴いていると、震えが止まっていく」
人々の表情から険しさが消える。やがて中毒の苦しみは凪のように寛解していった。
「ありがとう。……私たちは、あなた方の恩を一生忘れません」
小蛍をはじめとする雑技団の面々が、涙ながらに頭を下げる。
「お役に立てて良かったです。鉄臂城にはまだ滞在しますから、皆さんの雑技を拝見するのを楽しみにしていますね」
宿への帰り道、玲玲は自らの指先を見つめていた。
(私の奏でた音が、あんなにも人を救うなんて。……母様に教わったあの曲には、何か秘密があるのかしら)
一方、浩然の胸中もまた穏やかではなかった。
(救うことはできたが、奴らを逃がした。……道士たちの胸もとにあった紫微の紋。医仙谷で私を蝕んだあの毒と、無関係であるはずがない)
日常の裏で蠢く巨大な陰謀の影。浩然の表情は、夜の闇よりも深く、険しく沈んでいた。
二日後、興行を再開した広場には、玲玲と浩然の姿があった。
「本当に素晴らしかったわ! どの演目も手に汗握る迫力で、胸が熱くなりました」
玲玲が目を輝かせて熱弁すると、小蛍は照れくさそうに、けれど満面の笑みを浮かべて頷いた。
「私たちがこうして再び舞台に立てるのも、浩然さんと玲玲さんのおかげよ。本当にありがとう」
周囲の雑技師たちも、片付けの手を止めてワイワイと口々に話しかけてくる。
「うちの琵琶弾きもなかなかのものだが、お嬢さんの腕には敵わねえ。あんたの演奏は、都の高級な酒楼で奏でても遜色ないほどの品があるからな」
「まあ、酒楼……?」
玲玲は意外な言葉に目を丸くした。彼女にとっての琵琶は、母の面影を追い、ただ無心に爪弾いてきた趣味の延長線上にあるものだった。それが、見ず知らずの客から金銭を頂戴する「仕事」として認められるほどの価値があるとは、考えもしなかったのだ。
浩然は、少しだけ口角を上げてその談笑を見守っていたが、やがて表情を薬師のそれに戻し、小蛍へと向き直った。
「皆が元気そうそうで何よりだ。……ところで小蛍、一つ折り入って聞きたいことがある。実はある二人連れを探しているのだが、心当たりはないかな」
玲玲の兄・星宇と、烈華の容姿を伝えると、小蛍の表情が「おや」と動いた。
「その二人組なら、もしかすると心当たりがあるわ。少し変わった噂を耳にしたの」
小蛍が語ったのは、ここから程近い村にある廃寺の噂だった。
二週間ほど前、その廃寺に幽霊が出ると騒動になっていたところを、通りすがりの二人が解決したという。
「扇子を片手にした風雅な若君が、何やら怪しげな術で幽霊を誘い出し……正体が暴かれた瞬間、連れの凄腕の女性が、問答無用とばかりに拳で幽霊を地面に叩き伏せたんですって。幽霊の正体は、寺に住み着いた落ちぶれた武芸者だったそうよ」
小蛍がおかしそうに肩をすくめるのを余所に、玲玲と浩然は顔を見合わせ、深く頷いた。
小蛍から村の詳しい場所を聞き出し、二人は別れを告げる。
「鉄臂城を訪れるときは、必ずまた皆さんの舞台を見に来ますね」
「待ってるわ! その時までには、もっと驚くような新技を完成させておくから」
宿に戻る道すがら、玲玲は溜息まじりに呟いた。
「……扇子で誘い出し、拳で叩き伏せる。間違いありません、星宇兄様の策に、烈華姉様の力技です。幽霊退治だなんて、お二人は相変わらず目立ちすぎだわ」
困り果てた様子の玲玲に、浩然も思わず苦笑を漏らす。
腕に覚えのある者が集まる鉄臂城であれば、どこかで再会できるかと踏んでいたが、どうやら彼らは既にこの地を後にしていたようだ。
「ここでも私たちは一足遅かったようだね」
「ええ。でも……兄様や烈華姉様が、あの事件に巻き込まれなくて本当に良かったです」
玲玲の言葉に、浩然は真剣な面持ちで頷いた。
「二人は村を抜け、さらに南の碧水府へ向かったそうだ。我々もそちらへ舵を切ろう」
翌朝、浩然と玲玲は新たな目的地へと向かい、力強く足を踏み出した。




