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『 昼から降り続く雨がしとしと、小さな庭の潅木を濡らしている。しめった草と、木のにおいが鼻をかすめていく。空気が底のほうだけ少し、ひんやりと冷たかった。
梅雨の長雨、ながめ、とぼんやりしていたら、かすかな砂を踏む音が聞こえてはっとした。
こんな刻限に、誰が。
御簾をすかしてじっと見ると、夕闇に、黒い人影が佇んでいた。顔は見えない。けれども香りで、かの貴人がいらっしゃったのだとわかった。
あんなところにいたら濡れてしまう。
そう思ったけれども、こちらから声をおかけしても良いのか、わかりかねた。ためらっていると、かのお方からそっとお声がかかった。
「――袖だけでなく、この身すべてが濡れてしまいました。」
この、穏やかなお声を聞くのも久しぶりだ。すうっと、香りが近くなった。
「……お会いしたくて。」
そう言ってくださったのが嬉しくて、こちらも何かお返ししたかった。けれど気のきいた歌の一つでも、すぐに詠めるはずもなく。教養のないこの身が口惜しい。ひどくつまらないことしか言えなかった。
「お風邪でも召されたら大事。すぐに拭きませんと。
――ええと、タオルか何か……。」
貴人がきょとんとした。
「え、タオル?」』
はっとした。
黒板の前ではともえ先生が、のんびりと古典の教科書を朗読している。
古典の授業中。教室内の3分の1は睡眠中、もう3分の1は内職中、残りは……何をしているんだろう?あたしの席からは、全部は見えない。
授業中暇で暇で、気づいたらぼーっとして変な空想をしていたらしい。古典の授業もむやみに寝なくなったけど(たぶん小野くんのおかげだ)、全然集中していないなぁ。あたしは一人で赤くなりつつ反省して、椅子に座りなおした。
窓の外はしとしと雨が降っていて薄暗い。明るい蛍光灯に照らされた教室が、くっきりと外の風景から浮かび上がっているようだ。いつもとは違う、まるで別空間のよう。
最近は頑張って古典を勉強しているし、資料の便覧を眺めたりして、以前よりも知識が増えたのだろう。空想できるくらいに。けれど、昔はタオルなんてなかっただろうから、それで今ははっと現実に引き戻されたのだ。あたしの知識も浅い。
古典の昔は、タオルの代わりに何を使っていたのかな。濡れたり何かこぼしたりしたときに、そういうものが必要だと思うけれど。小野くんに聞いてみようかな。困らせてしまうだろうか。
あたしの変な空想の中の、貴族はたぶん、小野くんの顔だったと思う。
姫の方は、あまり考えていないけれど、あたしではない。いくらあたしの空想でも、そこまでおこがましい、都合の良いこと考えたりしませんよ。しません、しません。
くるくるシャープペンシルを手でいじりながら、今度はきちんと先生の話に注意を向けた。それにしても、この教科書の語り手は性格が悪い。「かたはらいたし」だって。
(あとで小野くんに聞いたのだけれど、「かたはらいたし」はあたしが思っていたような、高笑いして人をバカにするような意味ではないらしい。「傍らにいるのが苦痛」ってことで、見苦しいとかきまりが悪いとか、気の毒という意味のようだ。)
雨はしぶとく降り続いている。結局、授業の内容はあまり頭に入ってこなかった。
「朝子。」
休み時間。呼ばれて振り向くと頼子だった。片手をあげて近寄ってくる。もう片方の手には、紙パックのジュースを持っていた。
「あんた近頃、古典の授業でも爆睡しなくなったね。成長したじゃん。」
「まぁ今の授業は全然、ちゃんと聞いていなかったけどね。」
苦笑で返すと、頼子もニヤリと笑みをよこした。皮肉っぽい顔になる。
「――例の古典の特別授業、うまくいってんの?」
頼子はそう言って、教室内をぐるりと見回した。雨がふっているせいか、いつもより人が多くてむっと湿度か高く、暑く感じる。
「小野って、どいつだっけ?」
頼子がしれっと聞いてきた。
覚えてないのか、こいつは。あたしは呆れつつ、目線で小野くんの位置を示した。彼は隣の席の子と話している。
頼子は腕を組み、首を傾けてじいっと小野くんを見つめた。ほとんど睨んでいるのと同じだ。頼子はきつめの美人だから、睨まれると迫力があって、正直怖い。やめろとあたしが小突くと、頼子は小野くんから視線を外してこちらを見た。
「……朝子には、地味すぎるんじゃない。」
勝手なことを言う。あたしは顔をしかめた。
「別に、小野くんは地味じゃないよ。派手じゃないだけ。」
やや的外れになったあたしの反論に、頼子は肩をすくめただけだった。
「古典が得意、っていうのもねぇ。……根暗そうっていうか。朝子、ああいうの好みだったっけ?」
「根暗でもないよ。」
いいじゃないか、古典が得意でも。暗いなんて間違った偏見だ。小野くんの古典が得意なことは、何らマイナスポイントではない。むしろ長所なんだ。
頼子はあまり納得いかないように首を傾げている。確かに、小野くんは特別かっこいいわけじゃないよ。背が高いとかすごくお洒落とか、そういうわけでもない。頼子の好みには入らないのかも。
でも、地味でも何でも。
「――あたしには、眩しく見えるんだから仕方ない。」
ぽつんと言うと、頼子はふと笑った。優しげな微笑みで言う。
「……摩訶不思議。」
意地悪な奴だ。あたしは、今度は結構本気で小突いてやった。
頼子にからかわれるのが癪で、しかもなんとなく恥ずかしくて、あたしは机の上にまだ出してあった便覧をごまかすように開いた。とりあえず、頼子のにやにや笑い以外のものを見たかったのだ。
ぱっと開いたページには、万葉集の歌が載っていた。ますらおぶり、素朴で雄大、とか習ったやつだ。ふと、その中の一首に目が留まる。思わず、しげしげと見つめてしまった。
大地は 取り尽くすとも 世の中の 尽くしえぬものは 恋にしありけり
この歌を詠んだ人も、恋したのかな、と思った。
お読みくださりありがとうございました。