表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
古典の恋  作者:
4/4

『 昼から降り続く雨がしとしと、小さな庭の潅木を濡らしている。しめった草と、木のにおいが鼻をかすめていく。空気が底のほうだけ少し、ひんやりと冷たかった。

 梅雨の長雨、ながめ、とぼんやりしていたら、かすかな砂を踏む音が聞こえてはっとした。

 こんな刻限に、誰が。

 御簾をすかしてじっと見ると、夕闇に、黒い人影が佇んでいた。顔は見えない。けれども香りで、かの貴人がいらっしゃったのだとわかった。

 あんなところにいたら濡れてしまう。

 そう思ったけれども、こちらから声をおかけしても良いのか、わかりかねた。ためらっていると、かのお方からそっとお声がかかった。

「――袖だけでなく、この身すべてが濡れてしまいました。」

 この、穏やかなお声を聞くのも久しぶりだ。すうっと、香りが近くなった。

「……お会いしたくて。」

 そう言ってくださったのが嬉しくて、こちらも何かお返ししたかった。けれど気のきいた歌の一つでも、すぐに詠めるはずもなく。教養のないこの身が口惜しい。ひどくつまらないことしか言えなかった。

「お風邪でも召されたら大事。すぐに拭きませんと。

 ――ええと、タオルか何か……。」

 貴人がきょとんとした。

「え、タオル?」』




 はっとした。

 黒板の前ではともえ先生が、のんびりと古典の教科書を朗読している。

 古典の授業中。教室内の3分の1は睡眠中、もう3分の1は内職中、残りは……何をしているんだろう?あたしの席からは、全部は見えない。

 授業中暇で暇で、気づいたらぼーっとして変な空想をしていたらしい。古典の授業もむやみに寝なくなったけど(たぶん小野くんのおかげだ)、全然集中していないなぁ。あたしは一人で赤くなりつつ反省して、椅子に座りなおした。

 窓の外はしとしと雨が降っていて薄暗い。明るい蛍光灯に照らされた教室が、くっきりと外の風景から浮かび上がっているようだ。いつもとは違う、まるで別空間のよう。

 最近は頑張って古典を勉強しているし、資料の便覧を眺めたりして、以前よりも知識が増えたのだろう。空想できるくらいに。けれど、昔はタオルなんてなかっただろうから、それで今ははっと現実に引き戻されたのだ。あたしの知識も浅い。

 古典の昔は、タオルの代わりに何を使っていたのかな。濡れたり何かこぼしたりしたときに、そういうものが必要だと思うけれど。小野くんに聞いてみようかな。困らせてしまうだろうか。


 あたしの変な空想の中の、貴族はたぶん、小野くんの顔だったと思う。

 姫の方は、あまり考えていないけれど、あたしではない。いくらあたしの空想でも、そこまでおこがましい、都合の良いこと考えたりしませんよ。しません、しません。

 くるくるシャープペンシルを手でいじりながら、今度はきちんと先生の話に注意を向けた。それにしても、この教科書の語り手は性格が悪い。「かたはらいたし」だって。

 (あとで小野くんに聞いたのだけれど、「かたはらいたし」はあたしが思っていたような、高笑いして人をバカにするような意味ではないらしい。「傍らにいるのが苦痛」ってことで、見苦しいとかきまりが悪いとか、気の毒という意味のようだ。)

 雨はしぶとく降り続いている。結局、授業の内容はあまり頭に入ってこなかった。



「朝子。」

 休み時間。呼ばれて振り向くと頼子だった。片手をあげて近寄ってくる。もう片方の手には、紙パックのジュースを持っていた。

「あんた近頃、古典の授業でも爆睡しなくなったね。成長したじゃん。」

「まぁ今の授業は全然、ちゃんと聞いていなかったけどね。」

 苦笑で返すと、頼子もニヤリと笑みをよこした。皮肉っぽい顔になる。

「――例の古典の特別授業、うまくいってんの?」

 頼子はそう言って、教室内をぐるりと見回した。雨がふっているせいか、いつもより人が多くてむっと湿度か高く、暑く感じる。

「小野って、どいつだっけ?」

 頼子がしれっと聞いてきた。

 覚えてないのか、こいつは。あたしは呆れつつ、目線で小野くんの位置を示した。彼は隣の席の子と話している。

 頼子は腕を組み、首を傾けてじいっと小野くんを見つめた。ほとんど睨んでいるのと同じだ。頼子はきつめの美人だから、睨まれると迫力があって、正直怖い。やめろとあたしが小突くと、頼子は小野くんから視線を外してこちらを見た。

「……朝子には、地味すぎるんじゃない。」

 勝手なことを言う。あたしは顔をしかめた。

「別に、小野くんは地味じゃないよ。派手じゃないだけ。」

 やや的外れになったあたしの反論に、頼子は肩をすくめただけだった。

「古典が得意、っていうのもねぇ。……根暗そうっていうか。朝子、ああいうの好みだったっけ?」

「根暗でもないよ。」

 いいじゃないか、古典が得意でも。暗いなんて間違った偏見だ。小野くんの古典が得意なことは、何らマイナスポイントではない。むしろ長所なんだ。

 頼子はあまり納得いかないように首を傾げている。確かに、小野くんは特別かっこいいわけじゃないよ。背が高いとかすごくお洒落とか、そういうわけでもない。頼子の好みには入らないのかも。

 でも、地味でも何でも。

「――あたしには、眩しく見えるんだから仕方ない。」

 ぽつんと言うと、頼子はふと笑った。優しげな微笑みで言う。

「……摩訶不思議。」

 意地悪な奴だ。あたしは、今度は結構本気で小突いてやった。



 頼子にからかわれるのが癪で、しかもなんとなく恥ずかしくて、あたしは机の上にまだ出してあった便覧をごまかすように開いた。とりあえず、頼子のにやにや笑い以外のものを見たかったのだ。

 ぱっと開いたページには、万葉集の歌が載っていた。ますらおぶり、素朴で雄大、とか習ったやつだ。ふと、その中の一首に目が留まる。思わず、しげしげと見つめてしまった。


 大地は 取り尽くすとも 世の中の 尽くしえぬものは 恋にしありけり


 この歌を詠んだ人も、恋したのかな、と思った。


お読みくださりありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ