運命の巡る夜Ⅰ
あれからずいぶんの月日が過ぎたらしい。
けれど、これも過去の記憶だ。
景色に覚えがある。去年の秋だったか、葡萄畑が盛んな農地を治めている、さる伯爵家の夜会に招かれたときの記憶である。
十七歳のフィオナ・ベルベット。
庭園の水面に映る娘は、美しいエメラルド色のドレスをまとっている。線の細い、すらりとした体つきはまるで儚げな硝子細工のよう……併せて、直線上に伸ばしたプラチナブロンドの長髪が優美さに拍車をかけた。
化粧と装飾で己を着飾る彼女は、まさしく貴族の令嬢。フィオナ・ベルベットは、もう一人前の大人の女性となったのである。
橋の欄干に身を寄せて、令嬢は憂いを帯びた吐息をつく。その手に脚付きのグラスをやわらかく握り、時折、戯れに揺らしては丸い縁に口をつけた
ああ、もしもこの一枚画を額縁に収めることが叶うのなら、名のある貴族や商人たちがこぞって買い求めるにちがいない。
自惚れとからかわれてもかまわない。
わたしは心から自負したい。その資格が、いまの己にならあるはずだ。
誓いの日からおよそ十年間、フィオナ・ベルベット嬢は努めた。幅広い知識と確かな教養、厳格な作法としなやかな身の振る舞い、楽器の演奏から舞踏会での踊り方まで――求められるものはすべて、吐いた血と引き換えにこの身に叩きこんだ。
つらいときもあった、泣き出したい夜もあった。
しかし、わたしはやり遂げた。あの非力で幼かった少女は、いまやどこへ出しても恥ずかしくない完璧な貴族令嬢として成長したのであった。
そして十七歳を迎えたわたしは、ついに憧れの社交界へのデビューを果たす。
母親譲りの美貌もあって、その噂はたちまち貴族たちの間に広がったという。それが証拠に、わたしの元には季節の折々、華やかな会の招待状が尽きることなく舞いこんできたのであった。
社交界での注目の的、うるわしき一輪の華。
そう、それこそまさしく――。
「侯爵令嬢……白嶺の華……」
気の抜けた声が夜気に響く。
池の水鏡に映る令嬢は、ひどくふてくされた顔つきをしていた。何度目かになる、ため息。手にしていたグラスを口元へ運ぶや否や、底を夜空へと向けて一気にあおった。
「ぷはっ。ほんと、よくわからない味ね。これ」
……そうとも。
少女のたゆまない努力は実を結んだ。その結果自体には、わたしも十分に満足している。
あとは良き人と結ばれる縁を待つばかり。
しかし、白嶺の華ともてはやされる栄光の時は……存外に短いものであったのを、このときのわたしは思い知らされたのである。
「ディオス、おかわり」
優雅さの欠片もない命令を唱えて、令嬢は空のグラスを暗闇へと差し向ける。
本館の賑わいから離れて、夜の庭園に一人きりと思いきや忘れるところだった。侯爵令嬢のそばには、常にあの従者の存在が付きものであることを。
橋の先の東屋、その四柱の陰に彼はいた。漆黒の装いを闇に溶かしながら、音もなく、主であるわたしのそばに忍び寄る。
差し出したグラスの円の縁に、ボトルの細長い口があてがわれる。注がれて、満ち満ちたグラスの赤を横目に、令嬢はまた一つ気怠げな吐息をついた。引ったくるように口元に運び、今度は最初から最後までをいっぺんに飲み干してやる。それから十七歳のわたしは、透明な空のグラスを池へと投げ捨てた。
割れる音は聞こえない。
とぷんっ、と水面を潜って、沈む物音だけが響いた。池が波立ち、水鏡に映る令嬢の姿が崩れていった。
波の跡をたどって、秋風が水面をさらう。不意の肌寒さに令嬢が思わずくしゃみをすれば、その肩にそっと上着がかけられた。
波紋が静まり、水が再び令嬢の姿を映す。その隣には黒い人影が寄り添っていた。
従者のディオス・シュスである。
少女が美しい令嬢へ羽化したのと同様に、彼もまた、少年時代の面影をすっかりそぎ落とした一人の青年に成長していた。
黒髪に黒服といった単調な装いはそのままに、角張った体格と諸々の特徴は成人男性のそれである。わたしも貴族令嬢のなかではすらりと背の高い部類に入るらしいが、ディオスにはさらに頭一つ分以上越されてしまった。
腰のベルト、左右に携えた二本の長剣が彼の現在を物語る。少女の誓いのとおり、少年も令嬢を守る護衛騎士――すなわち、わたしの剣となったのだ。
我流の稽古だけではなく、きちんと剣術を学ばせるために指南学校にまで行かせてある。そのかいあってか、彼の腕前は都の将にも負けず劣らずとか。
「ディオス、おかわり」
「…………」
令嬢が先程とおなじ台詞をくり返して、隣の従者へ手を差し出す。当然、その手にはグラスはない。細い脚をつまんだような手の形だけを取って、見えない円形の口を向けた。
ディオスは彼女の手を見つめたあと、つと自身の手の内にあるボトルに視線を落とす。
誰がどう見たって令嬢の気まぐれの冗談だ。なのに、彼には伝わらなかったようで、律儀に主人の美しい手に注ぎ口を傾けようとしてきた。
あわやというところで、令嬢は手を引っこめる。「バカね、ふざけたに決まっているでしょ。それくらいわかりなさいよ」と彼女は怒って、ぷいと顔を横にそむけた。
十年以上の時が経っても、ディオスの性格は変わらない。剣術の才は光ったようだが、それ以外はいまひとつの朴念仁。心なしか、寡黙に拍車がかかったような気がする。
主と従者のつまらない漫才に呼応したのか、伯爵家の本館からどっと大勢の笑い声が湧き上がった。
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