幼き日の誓いⅣ
ドアの外から使用人の呼ぶ声が聞こえる。ディオスが一瞬そちらのほうへ顔を向けるも、「かまいやしないわ」と少女がそれを制した。
「新しい家族を迎えるため、念入りに身を整えていたとでも、あとで好きに言い訳をすればいいわ。それよりもディオス、わたしの目を見なさい」
すっと向き直った従者の、その漆黒の双眸を少女は見つめ返す。
ディオス・シュス。
わたしの従者。
わたしだけの忠実な僕。
落ちぶれた下級貴族の家の出で、わたしの遊び相手にと、侯爵家に半ば身を売られた哀れな少年……。
「よく聞きなさい。わたしはお父さまから見捨てられた可哀想な子どもです。……今日、新しくやって来る継母たちからも、きっと非情な仕打ちを受けることでしょう」
「…………」
「……ええ、認めるわ。わたしは無力で、誰からも愛されない子……。でもね、乳母が──ばあやが昔、こんなことをわたしに言ってくれたの。わたしにはね、ほかの家の子どもにない『格』、というものがあるんですって」
そうだ、ここからすべてがはじまったのだ。
最後の涙の一滴が、ほのかに笑う少女の頬を伝う。
「『侯爵家のご令嬢さま』という、揺るぎない身分が」
遠い日の記憶、忘れかけていた思い出。
一人の少女が悲嘆し、己の運命を受け入れて、さる誓いを立てた日。侯爵令嬢としての、わたし──フィオナ・ベルベットの物語がはじまった瞬間である。
「けれど、身分だけを着飾ってもダメ。ばあやはこうも言っていたわ……貴族のお嬢さまがたはみな、最上の華を目指して、たくさんお勉強するんですって。
おしゃべりを弾ませる知識と教養、どのお屋敷に招かれても恥ずかしくない作法と身の振る舞い、耳を惹きつける楽器の演奏に……そうそう、忘れてはいけないのが舞踏会での踊り方!」
指折り数えながら、少女は興奮ぎみに従者に説明する。従者の少年は相変わらず黙ったまま、少女の顔ばかりを見つめていた。
「求められるものは、求められるかぎり全部──すべてを宝石のように身につけることで、はじめて身分という品格がまばゆく輝くの。わたしの『侯爵令嬢』という称号が、ね。
そして、ばあやは最後に……」
少女は一拍置いた。泣き腫らして赤みを帯びていた頬に、薔薇色のつやが戻る。
「白嶺の華として、人々から一目置かれる令嬢になれば、いずれは……よき人との縁に結ばれるのだと」
白嶺の華。
それは山の頂、雪のかぶった銀世界に咲く美しい一輪の花を指す。転じて、貴族の令嬢として容易には手の届かない高みへと至った、『最上の一級品』と讃える呼び名なのである。
「不幸せなわたしが世を生きるためには、もうこれしか方法はないと思うの。侯爵令嬢としてわたし、『白嶺の華』になるわ。そしてお父さまの――ひいてベルベット家のお役に立つの、どこかの良家と縁を取り持つ存在になって」
「…………」
「もう、子どもの時間はおしまい。明日からはわたしは勉学とお稽古に励みます。華と生きる、それがわたしの道……」
そう言って少女はおもむろに、膝をつく少年の片手をすくい上げた。彼の指を握り、漆黒の眼差しを受け止めながら口を開く。
「ディオス、あなたは剣と生きなさい」
「…………」
「花はか弱いの。守ってくれる誰かがいないと、無残に手折られてしまうわ。だから、あなたはわたしのために剣を取って。……そう、護衛騎士となりなさい」
「…………」
「ディオスだって、行き場のないのはおなじでしょう? また家から捨てられたくないのなら、わたしのそばにいなさい。
あなたの身寄りはわたしが守ります。だからあなたも……最上の華として咲き誇ろうとするわたしを、そばで守って……」
強く握りしめた手を引き寄せる。幼い二人の瞳が交差した。
「それがあなたの役目」
「…………」
「いいわね?」
ディオスは始終、無言であった。
しかし、最後のひと言には、静かにうなずき返してくれた。それを見た少女は握っていた手を引っくり返して、今度は黒袖の手を下に、自身の指を乗せた形を取る。
それは、騎士物語の挿絵で見た情景だ。
姫の手を取り、ひざまづいた騎士が誓いを立てるという美しい一場面である。
「さぁ、わたしの手に口づけをして誓いなさい。わたしは華と生き、あなたは剣と生きる……互いに裏切ることがないように……」
言われるままに、少年は音のない口づけを少女の白い指先に落とした。
……ああ、なんて切ない子どもたちか。
わたしは声に出ない感嘆をこぼした。
幼少の頃に従者と交わした誓い。無力な子ども同士が、厳しい身分社会を生き抜くために掲げた、つたない志……弱かった小さなわたしの現実……。
しかし、なぜなのか。
わたしはなぜ、こんな遠い日の記憶を垣間見ているのだろう。
忘れかけていたほど、遥か昔の出来事のはずである。そして、この誓いの日から年月は経ち──約束が果たされた現在に、わたしはいたのではなかっただろうか?
困惑していると、またしても視界が闇に閉ざされる。恐ろしい氷のような寒気も戻ってきた。わたしは思案を中断し、慌ててまた光の断片を探しはじめた。
新たな光を見つけるまで、そう長くはかからなかった。おぼろけなオレンジ色の光が、静かな闇の虚空に浮かんでいる。
灯火だ。
それは夜の闇を払う、ランタンの火の明かりであった。
ひとすじの風がわたしの頬を撫ぜる。招かれるように視界が開けると、そこはもう、母の私室ではなくなっていた。屋外、夜の帳が下りた静かな庭園の風景が目の前に広がっていた。
眠りについた花たちの代わりに、庭園を美しく飾るのは鏡のような池であった。水面に映った天体を背景に、季節外れの蛍を思わせるランタンの灯火が色を添える。水に沈んだ逆さまの橋と東屋が、見る者をいっそうの幻想へと誘った。
その橋の上には、一人の美しい娘がたたずんでいた。
もう泣き虫の面影などない。その娘こそ、わたしが一番身近に思う自分の像──侯爵令嬢フィオナ・ベルベットの姿である。
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