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エッセー拾遺 ― 文芸誌のコラムから  作者: 坂本梧朗
2000年代

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第75説 詩について思うことを少し書こう。……

 詩について思うことを少し書こう。

 『古今集』の「仮名序」冒頭に紀貫之が「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。」と書いたことはよく知られている。詩について考えるとき、私にはこの文言がよく思い浮かぶ。「人の心」が基にあって、それがあらゆる言葉、つまり表現を生み出す。これは和歌に限らず、文芸全般の原理であろう。言語表現の根底には人間の精神(こころ)があるのだ。詩作品を読むとき、我々が究極的に享受するのは、表現を通じて浮かび上がるこの人間精神なのではあるまいか。我々はその精神に触れて初めて詩を読んだという充足感を抱き、その詩を受け取ったと思うのではないだろうか。

 言葉は確かに単なる伝達の手段ではなく、文法規則や一語の持つ意味合いなど、社会的な重りをもつ素材である。それは表現者の恣意を超えている。表現者はそんな言葉の「重り」を弁えて使用しなければ効果を得られない。

 言語派の人々は人間の精神よりも言葉を重んじるだろう。個人の陳腐な主観よりも、言葉自体が持つインパクトに価値を置くだろう。それで作品は言葉のオブジェとなる。私が言語派の作品を読む時いつも感じるのは言葉の過剰だ。確かに詩は言葉によって作られる芸術だ。言葉で作品を構築するという意識が言語派には旺盛だ。しかし言葉の根底にあるはずの精神の方はどうなっているか。精神にさして重きを置かない作者はそれを無視している。精神はほったらかされて言葉だけが独走する。氾濫する言葉は精神という焦点を持たない。だから読後感が無味なのだ。

 精神と言葉の緊張関係。そこに詩作の要点がある。どんな言葉も意味を持ち、従って精神を担い得る。表現者は自分の精神が読者に伝わるように言葉を排列する。排列を誤ると、それは別の精神を伝えてしまうことになる。恐らく自分の精神を百パーセント伝えきることは不可能だろう。同じ表現でも読者各個の言語経験によって受け取り方も異なってくるのだ。作品が作者の意図を超えたり、裏切ったりすることもある。それはまた詩という芸術の面白さや奥深さでもある。

 精神とそれを伝える言葉。両者をどう磨いていくか。そこが詩人の苦労のしどころだろう。

                                   
















 

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