第74説 杜甫の詩を読んでいる。……
杜甫の詩を読んでいる。岩波文庫の鈴木虎雄訳注『杜詩』全八冊の第二冊目を現在読み進めている。
第五詩集を出して、いろいろな感想をいただいた。わざわざ書いて送ってくださる感想には共感の意を表明してくださるものが多かった。新聞地方版の時評欄で私の詩集を取り上げた評者は、私が社会的政治的題材を取り上げ、それに対する意見や心情を表明するのが気に入らないようで、「それだけでは詩にならない」と言う。一方、同じ欄で私と並んで取り上げられ、高く評価されているのは詩行中にアラビア数字が混じっているような詩集だ。
評者は所謂「言語派」に属するのだと思うが、こうした批判に接して改めて詩界の現状を思った。こういう勢力がマスコミに力を揮っているのは確かだ。私も自分の詩的立場をしっかり築かなければならないと思った。
第五詩集を出して私が書く詩の姿というものが自分にとっても明確になってきたように思う。私が目指す詩、私が詩に求めるものもそれと並行して明らかになってきた。すると、参考にすべき先達詩人も見えてくる。杜甫もその一人だ。彼の詩集は私に何らかの栄養をもたらしてくれるはずだ。
実は杜甫は学生時代から気にかけていた詩人だった。読まなければならない詩人だと思っていた。具体的な理由があるわけではない。おそらく漢詩の世界で「詩聖」と呼ばれ、我が国の松尾芭蕉も師と仰ぐような大詩人であるというのが最大の理由だったと思う。しかし並称される李白には不思議と惹かれなかった。『杜詩』全八冊はそのころ購入した。しかし動機の脆弱性のため読まないままだった。それを取り出して手にしている。黒川洋一注の中国詩人選集『杜甫』(上・下 岩波書店)もそのころ買っている。これも未読だ。全八冊の次はこれを読もうと思う。
私は近頃こういうことが多い。ルソーの『人間不平等起源論』『エミール』なども学生時代に買っていたのだが、読んだのは二、三年前だ。
五十歳を過ぎて抱いた問題意識からこれらの古典に回帰していくのだから、購入時とは違う考え、関心で読んでいくわけだ。しかし、若い頃大切だと考えていた著作家がやはり読んでおかなければならない対象として浮き上がってくるのは、自分の目の確かさが証明されたようで悪い気はしない。
あるいは目の確かさなどとは関係なく、若さの持つ純粋さが本物を嗅ぎつけているのかも知れない。いずれにしても若い頃ひきつけられたものは簡単に捨ててはいけないようだ。




