第69説 「個人」についてよく考える。……
「個人」についてよく考える。人間の解放は個人の解放である。国や民族が解放されても、人間は個人レベルで解放されなければ解放は達成されたとは言えない。また、個人が尊重されない社会は人間が尊重されていない社会だ。個人こそ価値のメルクマールと考える。
個人の尊重は利己主義を意味しない。各人が個人であり、尊重されるべき存在だからだ。そこでは互いを尊重することが基本的精神として要求される。これは民主主義、と言うよりも、あらゆる人間関係の基礎だろう。自己と他者、あるいは個人と集団の関係の理想的在り方は、よく引かれる「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件である」(「共産党宣言」)ような関係だが、そのような協同社会の実現は人類史の見果てぬ夢である。
人生の目的は自己実現だ。自己実現とは、『広辞苑』では「自分の中にひそむ可能性を自分で見つけ、十分に発揮していくこと」とあるが、それが自分の価値観に沿ってなされることは必須の条件だろう。価値観は多様だが、人間が価値を見出す対象は、個人であれ、集団であれ、人間だ。人間が他者との共同を本質的欲求として持っている以上、人間の価値の対象を個人、集団のどちらかに限局することはできず、両者にまたがるのが通常だ。
個人主義の対極に国家主義がある。人間集団の最高カテゴリーとして「国家」に価値を置くのだ。近代日本の支配的政治・社会思想はこれだった。国の権威だけが尊重され、国民は国に奉仕するものとしてのみ、その存在意義を認められた。しかし、国家主義の実態は権力への迎合・服従であり、戦争推進の道具であることを歴史は示した。
日本人は個人よりも集団に価値を置く傾向が強い。集団との連関、つまり他者との共同は人間の本性だが、その共同の中には個人が厳存していなければならない。個人不在の集団主義は戦前のような空虚で不毛な全体主義に陥る。ところが個人の尊重の基礎である基本的人権を定めた憲法の下で六十年が経過しても、日本人の個人意識は順当に育っていない。個人意識を嫌忌する保守政治の持続は今もなお戦前からの負の遺産を国民に引きずらせているのだ。
個人尊重の気風に乏しく、その伝統もない日本社会は人間を粗略に扱う傾向がある。しかも資本主義の利潤追求に極めて寛大なこの国は何事においても効率を人間の上位に置いている。人間は資本間の熾烈な競争戦の中の駒として駆使され廃棄されている。その結果、人間破壊の荒廃現象が頻出している。




