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エッセー拾遺 ― 文芸誌のコラムから  作者: 坂本梧朗
2000年代

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第64説 二〇〇五年はどんな年になるか。……

 二〇〇五年はどんな年になるか。どうも明るい展望は描けない。個人的にも、日本全体としても。

 現在の日本社会は荒廃の相を深めている。子の親殺しや親の子殺し、何の罪もない子供の虐待、殺害などの事件の多発がそれを示している。自殺者も三万人を越える年が続いている。そのような中で人間を大切にしない風潮が広がっている。

 利潤追求を優先し、優勝劣敗、弱肉強食を是とする政治が、「改革」の名の下で推進されていることがその背景としてあるだろう。

 横断歩道の端に立っても車は止まらない。それどころか横断歩道を歩いていても徐行せずに進んでくる。早く渡ってしまえと威嚇する雰囲気がある。こちらが急いで渡った背後をサッと通過する。歩行者優先はどこへいったのか。車と人では車が強いという力の論理がまかり通っている。人間を粗末に扱うこの国の風潮をわたしはそこに端的に感じる。

 「和を以て貴しと為す」という聖徳太子の十七条憲法以来の伝統なのだろうか、日本人の人間関係を律しているのは「和」の精神だろう。互いに自己を抑えてその場の「和」を保とうとするのだ。半世紀以上日本社会を生きてきて、私が実感するのは日本人の人間関係の内容の無さだ。そこでは冗談を言い合ったり、遊びの話をするのが人間関係なのだ。価値観や人生の目的などに関係して結ばれるような人間関係は希少だ。言わば仕事をスムースに行うために、その便宜として結ばれる人間関係なのだ。だから表面的には和やかなようだが、人間的に繫がっているわけではないので、一皮剥けば個々バラバラなのだ。戦前のように「村」に発する共同意識が濃厚な時代なら、それが各個人を一つに括り、各個人もそこに充足感を得たろうが、現在のように共同体が家族に至るまで崩壊し、苛烈な競争意識に個人が囚われている時代には、表面的な「和」に統括されるような人間関係はその不毛さを増すばかりだ。前述したような人間社会の荒廃はこうした人間不在の人間関係にもその根の一つを持っている。

 この国が現在必要としているのは人間尊重の精神であり、行動であり、政治であろう。それが起動すれば明るい展望も持てるだろう。

 人間尊重は個人の尊重である。無内容な「和」ではなく、個人と個人が結びつくことを目的とし、内容とする人間関係の創出こそ人間尊重の社会を築く基盤となるのではないか。

 日本人は新しい人間関係の創出を課題として迫られていると考える。


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