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エッセー拾遺 ― 文芸誌のコラムから  作者: 坂本梧朗
2000年代

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70/110

第59説 授業で芥川の「羅生門」を教えている。……


 授業で芥川の「羅生門」を教えている。この作品は中島敦の「山月記」や漱石の「こころ」などと並んで高校国語教科書の定番になっている。私も教えるのは今回で四度目ほどになる。

 名作としての評価が定まっている作品ということなのだろうが、私にはどうもしっくりこないところがある。できるならこれは外して、別の小説を授業ではやりたいと思うのだ。確かに周到に計算された構成や、効果的な優れた描写はあるのだが、一番大切な点が欠けているように思われるのだ。それは一言で言えばリアリティーだ。

 主人公の下人は奉公先の主人から暇を出されて、羅生門の下で、これからどうして生きていくか悩んでいる。彼の悩みの焦点はこのまま飢え死にをするか、それとも盗人になるか、ということにある。下人は盗人になるほかに道はないと思いながらも、実際に盗みをする勇気が出ない。ところがそこに老婆が現れる。老婆は羅生門の楼に打ち捨てられている死骸の髪の毛を抜いて鬘を作り、それを売って生計を立てていた。下人は老婆を捕らえ、その弁明を聞く。飢え死にをしないためにやむなくする「悪」は許されるという老婆の論理に力を得た下人は、老婆の着物をはぎ取って敢然と盗人になるという筋だ。

 リアリティーのなさはまず下人の思弁的な態度にある。羅生門の下に腰を据えて、彼は長時間ハムレットのように悩むのだ。それは高い倫理意識を持つ内省的な青年が人生いかに生きるべきかと悩む姿を彷彿させる雰囲気だ。小説としては致命的なことに、飢え死にが迫っているはずのこの青年には飢えが少しも感じられない。飢えに迫られている青年が黙然としてこんな思案を続けるだろうか。「雨に降りこめられて行き所がない」としても。 下人の選択肢が盗人しかないというのもリアリティーを欠く。これだけ考えれば、実現性はともかく、一、二の手段が浮かびそうなものだ。老婆や、蛇の肉を干し魚と偽って売っていた女のような工夫が一つも浮かんでこないものだろうか。

 日が暮れると誰もが気味悪がって近付かない場所になっている羅生門に、盗人になる勇気が出ないような心優しい青年が居続けるというのも不自然だ。しかも彼は「一晩らくに寝」るために死骸が「ごろごろ転がっている」楼に上っていく。死骸の凄まじい腐臭のなかで寝ようなどと思い付くのは普通の神経ではあるまい。

 リアリティーとは別な疑問もある。老婆や蛇の肉を売っていた女は曲がりなりにも有用物を提供して代価を得ている。単なる盗みとは違うのだ。だから下人が行った行為は老婆の論理に言う「悪」とストレートに重なるものではない。作者はその違いに気付いていただろうか。

 芥川はこの作品で一つの心理実験を試みたと思われるが、リアリティーの欠落によってこの作品ではそうした作者の意図による仮構性が強く印象づけられる。その意味では決して成功している小説ではない。                                                            

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