第57説 平野育枝詩集『夢の蛇』評 ― 童心の持続
なかなか面白い詩集だ。初めての詩集ということだが、詩歴は長い。「百花の会」に入って三十年という。作品を読むと、なるほど、詩を知っている人だと思う。
Ⅰ部が特に面白い。作者の詩の味わいのエッセンスが込められた作品が並んでいる。
「立春」は「母が別珍の足袋のこはぜを/はずしている/かかとがひっそり/あらわれる」と始まる。二連目は、「わたしは/畑をたがやす/(略)/くわの一方で土をほぐす/トン トン」と耕作の場面に移る。三連目は「肩たたきの手をやすめて/母の顔をのぞきこんだ/ねむっていく/母」。四、五連目は再び耕作の場面。「くわをあげていくと/からだの中心から/ねつがおこり/ひふのうえをもりあがっておちていく(略) 土がいま/うまれた/というふうに/つぶつぶ転がってでてくる/くうきをおいしそうにむさぼって/もあもあと/ふくらんでいく」そして、第六連、「もあもあと湯気をあげて/ごはんは炊きあがり/おかあさんだった/母が/よそってくれた」とつながる。その「御飯のつぶつぶそれぞれが/生き物みたいにかがやいて/さむかった家は/そわそわと/あたたかくなっていった/けれど」(第七連)、そして最終連「春のきざしのえんがわで/母の別珍の足袋が/とろとろと/陽を食んでいる」。この変転するイメージの巧みさ。しかも各イメージは春の「陽気」のようなもので一つにつながれている。詩とは固定した視点による叙述ではないということを知っている作者が浮き上がるのだ。
「春の日」はどうか。これはひいおばあちゃんの臨終の日の思い出だ。おとなも子供も「きまりごとみたいに/目を鼻のほうによせ」、ひいおばあちゃんが寝ている「ちょうだい」の間に「すいこまれて」いく。「くらがり」に浮かぶ「寝台のにほんの鉄のあし」、「そのうえに/ふわっふわっとした/しろいちいさなあたまが/こっちをむいてあった」。「ひいおばあちゃんのいなくなった/ちょうだいには/たんぽぽのらっかさんが/ひとつ/したにうえに/あそんでいた」ひいおばあちゃんの「ふわっふわっとした/しろいちいさなあたま」と「たんぽぽのらっかさん」との照応。はかなさ、浮遊感の見事な定着だ。
「えいえん」 この作品は「小学校一年生」の表紙の絵の無限連鎖という意匠よりも、「おにいさん」の描き方が面白かった。自転車に乗って、「西から」きて、「東へいく」軽快な動きの描写が快い。おにいさんは、「ゆうがたには/しろいエプロンをした新婚のおくさんが店番をしている/西のおうちへ帰っていく」。この面白さは子供の感覚そのものでおにいさんの動きが促えられているからだろう。佐藤泰正氏が詩集の「序」で指摘しておられる「子供の眼」のみずみずしさだ。
「内祝」 これも「子供の眼」の力を感じさせる作品。「内祝」を届け間違った思い出か。幼い眼が促えた「おばあさん」の動きの緩慢さ。しかし、その動きで間違って届けられた品物をきちんと返しに来る誠実さ。子供を叱らない親。暖かい人間関係が伝わってくる。詩とはひたすら見て感じることだということが改めて思われる。
「おばあさん」 その姿が現れると、人々があわてて「笑顔の口をとざしてしま」う「おばあさん」に作者はさっと寄り添う。そして嫌悪でも隣れみでもない態度で「おばあさん」そのものをつかんでしまう。ここに子供の凄さがある。墓に供えられた饅頭を食べるという行為がこの老婆の境遇を端的に示している。しかし作者は「おばあさんはお墓が大好きです」と頓着しない。「おまんじゅうをほおばるおばあさんは/おかあさんからおやつをもらった/甘い声の少女のようで/とてもやわらかい顔をしておりました」と曇りのない眼で見据えてしまう。詩行の後で、金も身寄りもないこの老婆の悲しみがふうっと這い上がってくる。
Ⅱ部の「おばちゃん」も童心の躍動が感じられる作品だ。
以上、注目される作品について述べた。他にもいくつか作者独特の感性の閃きが感じられる作品がある。
結局、この作者の詩の魅力は「童心の持続」というところにあるのだろうか。この持続はしかし困難だ。勉強や修練でできることではない。また、失うまいとして把持できるものでもなかろう。詩は基本的にはつくるものではなく、できるものだ。自然の介入なしに詩はできない。幸いにして作者の資質は豊かだ。大らかに、のびやかに書きつづけられることを願う。




