第55説 私が所属する詩誌『沙漠』に……
私が所属する詩誌『沙漠』に十九世紀フランスの象徴主義詩に関するエッセイを書いたのを機縁に、ランボーについてこの間集中的に読んできた。ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」に接したのは昨年だったが、その面白さが私にフランス文学への関心を呼び起こした。ユゴーが作家であるばかりでなく、国民的な尊敬を受けている詩人であることも知り、それが私をフランスの十九世紀の詩界に導くことになった。前記のエッセイを書いたのはその流れである。
さて、ランボーだが、エッセイを書く準備に図書館で文献を探していた折、『ランボー全集〔全一巻〕』(一九八八年雪華社刊)を見付けた。分厚い本だが、たった一冊のなかにランボーの韻文、散文、書簡などがまとめて載せてあるので、ランボーを知るのには便利だ。しかも韻文の翻訳は詩人の金子光晴が担当していた。金子光晴がその詩を翻訳するほどランボーを愛し、また語学力があったというのは発見だった。エッセイの締切りが迫っていて、全てを読むことができずに筆をとったのだが、出稿したあと、改めてゆっくり、書簡を含めて『全集』を読み通した。
『全集』のほぼ半分は書簡が占めている。そしてその大半は、詩と西洋世界を捨てたランボーが、アフリカのアビシニアの地で商人となってキャラバンなどを組織していた時期に家族に宛て出したものだ。そこには詩や文学についての記述は一行一句もない。あれほどの世評高い作品を残した詩人にこれほどの詩に対する断念がなぜ生じたのか。これはやはり頭に浮かんでくる疑問である。
そのことを私なりに考えてみようと思って、ランボーが書き遺したものはもちろんだが、二、三の研究者のランボー論や、彼の周囲にいた人たちの回想記の類を読んでいる。
私が注目しているのは、ランボーが詩人として出発し、盛んに作品を書いていた時代はフランスの動乱期であったことだ。一八七〇年と言えば、ランボーが詩人として立つ決意を固めた年だが、この年には普仏戦争が起こっている。フランスはプロイセン軍に連戦連敗し、開戦からわずか二月足らずでナポレオン三世は降伏する。ランボーの住む町の隣町も砲火を浴び、破壊されている。ナポレオン三世の降伏後も戦争は継続する。帝政は打倒され、臨時国防政府が成立するが、この政府は民衆の革命化を恐れ、プロイセンに対しても徹底抗戦の意志がなかった。そして遂にパリ・コミューンの成立に至る。このような動乱に多感なランボーが深く関わり、影響を受けたことが窺われるのだ。私はこのことが彼の詩作にもある特徴を与え、ひいてはそれが詩作の断念にも関係していくのではないかと思っている。




