第44説 言葉が〈モノ〉になるとき
詩の言葉は事物を伝達するための手段ではなく、その言葉自体が目的なのだということがよく言われる。そこから事物と言葉との連関を無視して、言葉それ自体を目的として追求する詩作も行われるようになったのだと思われる。
言葉が手段ではなく目的となるという言い方は言葉を格上げする印象を与え、言葉を用いて創造を行う詩人にとっては確かに魅力的な立言だ。しかし言葉それ自体を目的として追求する詩作の不毛は言語主義の作品において我々の既に見てきたところだと思う。
しかし、詩の言葉と日常の言葉とは確かに違う。それではどこが違うのか。これまで言われてきたように前者は目的だが、後者は伝達のための手段だという違いだろうか。そういう表現は適当ではあるまい。詩の言葉もまた事物(物理的な物から、社会的な事象、人間の意識内容までを含む。以下、〈モノ〉と表記する。)を伝達するのだから。言語主義の不毛は言葉の本質である伝達性を事実上否認したところに生じたのだと思う。では詩の言葉と日常の言葉とはどこが違うのか。一言で言えば伝達する内容と仕方が違うのだと思う。
日常言語は〈モノ〉と一対一の対応関係にある。一つの言葉は現実に存在する個別・具体的な〈モノ〉を伝達する。それに対して詩における一つの言葉が伝えるものは現実に存在する個別・具体的な〈モノ〉ではない。一つの詩語はその背後に様々な〈モノ〉を引き連れている。そしてその詩語の集合体=詩作品が全体として伝えるものは現実にあるものとは異質なものだ。それは作者の認識を通過することで何らかの普遍性を付与された〈モノ〉だ。日常言語の背後には個別・具体的な〈モノ〉があるが、詩的言語は集合したその全体においてそれまで存在していなかった新たな〈モノ〉を提示する。その意味で詩的言語では言葉が〈モノ〉に代位し、つまり言葉が〈モノ〉になるのだ。日常言語は既存の〈モノ〉を指示するが、詩的言語は未存の〈モノ〉を提示する。ここに日常言語と詩的言語の伝達内容の違いがある。
伝達の仕方の違いについては、日常言語は一語で一つの〈モノ〉を伝えるのが基本だろう。一語が個別・具体的な〈モノ〉に対応しているからだ。未存の〈モノ〉を現出させる詩的言語ではそのために多くの言葉が連携して用いられる。言葉のアンサンブルによる伝達、これが詩的言語における伝達の仕方だ。そのアンサンブルのやり方についてはさまざまな手法や修辞法が工夫・考案され現代に至っている。




