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エッセー拾遺 ― 文芸誌のコラムから  作者: 坂本梧朗
1990年代

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第43説 大衆文学寸言


 この三ヶ月ほど大衆文学に関する著作を読んでいる。日本文学には大正期以後、純文学と大衆文学という独特の区分が行われ、アカデミックな文学史では専ら前者が論述され、後者は新聞の時評などでも殆ど取り上げられることなく、娯楽のための消耗品として扱われているようである。しかし、私もそうだが、日本人の精神形成に影響を及ぼしてきた度合いを考えると、大衆文学は決して無視してよいものではなく、純文学よりむしろ大きな作用をなしてきたと言えるのではないか。

 今回読んだのは、木村毅、尾崎秀樹、鶴見俊輔の著作だが、これらの評論家の著書を読むのは初めてで、日本にも大衆文学の研究に長年にわたって真摯に取組んできた評論家が居たことを知り、認識を新たにした。さらに三者とも事実をよく調べて立論するという態度において共通するものがあり、好感を抱いた。特に、世界の文学について広範にして精確な知識を有しながら、大正時代から一貫して大衆文学に心を寄せて著述活動をしてきた木村毅の業績は偉観であり、驚きだった。

 いろいろ啓発されることは多かったが、日本の近代文学の出発に当って、あまりに西欧を範とし、追いつき追い越そうと逸ったため、近世文学からの流れを断絶させてしまったという尾崎秀樹の指摘は胸に重く響いた。幕末から明治にかけての講談や落語が内包していた小説的構想力や庶民的なロマンが、そのために近代文学からは失われることになり、そこに日本の近代文学の不幸があったと尾崎は述べている。

 日本文学における純文学と大衆文学の分裂はこの近代文学の出発期に胚胎していたと言えるだろう。アカデミックな近代文学、言い換えれば純文学によって切り捨てられた伝統的形式や庶民的な感情、ロマンは伏流となって文学の底辺に沈潜し、大正期にその流れを継承するものとして現れてきたものが大衆文学ということになる。成立した大衆文学は、ほどなくマスコミの商業主義に足を掬われ、健全な発達を阻害されるという問題を抱える。しかし、大衆文学を単に大量消費される娯楽品と見ることは誤りだろう。人生いかに生くべきかを求めて大衆文学を読み、また大衆文学を読むなかで人生や世の中についての知見や洞察を得る日本人は多いのだ。

 純文学には日本の文化的伝統、現実社会、庶民に根を下ろしていない弱点が出発の当初からある。一方、大衆文学は商業主義にスポイルされて文学の魂を失ってしまう危険性を常に孕んでいる。両者を止揚したところに生まれる文学こそ国民文学と言うべきものだろうが、その形成は容易ではない。

 明治の十年代に西欧の詩の移入から始まった近代詩は、日本の文学的伝統から全く断絶したところで生まれた、言わば維新の申し子である。その後もずっと顔を西欧に向けて育ってきた。日本的現実からの乖離という点では小説より甚だしいものがあるのではないか。

 近代文学の出発から百年以上を経た現在、日本の伝統と現実に根を下ろした、しかも現代的な問題意識を核として持つ文学の創造が求められている。それは日本の近代化の歪みが文学に負わせた跛行(はこう)を克服することでもある。詩の進むべき方向もまたそこにあると思われる。

                                    (文中敬称略)

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