第39説 名詩鑑賞
仕事
吉野弘
停年で会社をやめたひとが
――ちょっと遊びに
といって僕の職場に顔を出した。
――退屈でしてねえ
――いいご身分じゃないか
――それが、一人きりだと落ちつかないんですよ
元同僚の傍の椅子に座ったその頬はこけ
頭に白いものが増えている。
その人が慰められて帰ったあと
友人の一人がいう。
――驚いたな、仕事をしないと
ああも老けこむかね
向い側の同僚が断言する。
――人間は矢張り、働くように出来ているのさ
聞いていた僕の中の
一人は肯き他の一人は拒む。
そのひとが、別の日
にこにこしてあらわれた。
――仕事が見つかりましたよ
小さな町工場ですがね
これが現代の幸福というものかもしれないが
なぜかしら僕は
ひところの彼のげっそりやせた顔がなつかしく
いまだに僕の心の壁に掛けている。
仕事にありついて若返った彼
あれは、何かを失ったあとの彼のような気がして。
ほんとうの彼ではないような気がして。
ワーク(カ)ホリックという言葉がある。仕事中毒という意味だが、この詩を読むと、日本人の宿痾とも言うべき仕事依存症の根深さが思われる。この話はよそごとではない。私の職場にも見られることだ。公立高校を定年退職して、なお働こうという先生方がたくさんいらっしゃる。何のために働くのか。経済的な理由からではない。ボケ防止、健康のためという答が多いようだ。そんな理由で教壇に立たれては生徒も迷惑だろうと思うが、またそのために若い人の働き口が奪われているという面もあるのだが、とにかく頑張っていらっしゃる。経営側にとってみれば年金受領分だけ給料を下げられるというメリットがあるわけなのだろうが。
しかし、これは「勤勉」なのだろうか。私はむしろ人生に対する怠惰の一つの形のような気がする。それだけ執着する「仕事」のなかに何があるのか。健康的な規則正しい生活、孤独を紛らす適度な人間関係、人の役にたっているという満足感、持て余すことなく消えてくれる時間、…。なるほど。しかしそれは「仕事」がなければ手に入らないものか。「仕事」=雇用という枠に自分を嵌め込まなければ獲得不能なものなのか。人生の充実は「仕事」が与えてくれるものか。終結期を迎えている人生の残り時間の全てを捧げて本当にしたいことはないのか。同類がたくさんある中の一つではなく、世界に一人しかいない自分の唯一無二のそれとして、人生に向き合っているだろうか。むしろ「仕事」は自分の人生とまともに向き合うことからの逃避の手段になっていないか。
戦後、日本人は「エコノミックアニマル」「会社人間」「企業戦士」などという言葉が生まれるほどよく働いてきた。自分の人生さえ脇に置いて。その悲しい後遺症をこの詩は語っている。作者の眼はその生き方の空虚さを鋭くとらえている。一九六四年刊行の詩画集『10ワットの太陽』に収載。




