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エッセー拾遺 ― 文芸誌のコラムから  作者: 坂本梧朗
1990年代

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第35説 私は3DKのアパートで…… 

 私は3DKのアパートで妻と二人暮しだ。子供はいない。子供がいないのは家庭として不完全なような気がする。家族という言葉で浮かぶのは夫婦と子供二人という構成だ。自分がそんな環境で育ってきたせいだろう。子供がいてこそ家族であり、家庭だという意識がある。しかし現実には私の家庭は妻と二人だけだ。最小限家族だと思っている。

 私は子供がいないことを寂しく思ったことはない。天命だと思っている。子供の代りに生出し育てるものがあるのだろうと思っている。しかし、最小限家族の限界のようなものを時折感じさせられるのも事実だ。例えば、妻が近頃肥満を気にして、夜、歩き始めた。夜道を一人で歩くのは不用心だから私も付き合うことになる。二人肩を並べて夜道を歩くと、一人より二人の方がどんなに心強いかということが実感される。二人が一緒だからこそ生きていけるのだという思いも起きる。しかし同時に、夜の闇の中では、二人しかいないんだという心細さも強まる。今、暴漢でも現れたら自分一人で対処出来るだろうか、という思いから始まって、二人だけの家族だから、どちらかがどうかなれば家族はそれで消滅するのだ、と言うような寄る辺ない思いに囚われるのだ。もう一つ例をあげれば、妻は実の姉の娘を生まれた時から我が子のように可愛がってきた。その姪が時たま我が家に泊ることがある。そんな時妻はうきうきした様子で晩食の支度をする。いつもより手のこんだ、品数の多い料理が並ぶ。食事をしながら妻と姪の会話が続く。私も時々口を挿む。なかなか楽しい。いつもより賑やかだ。二人だけの食事の時はテレビが主役で、会話はあまりない。話をしても見ているテレビ番組に関する話題が殆どだ。確かに一家団欒の雰囲気は子供がいなければ味わえないと感じさせられるのだ。

 妻は手作り品の小さな店をやっていて、私より帰宅が遅い。帰宅してから夕食を作り始める。私は空腹をこらえながら待つ。手伝うことはしない。私の分担する家事は浴槽に湯を入れることと風呂場の掃除、寝床を敷くこと上げることと定まっている。その他には時折洗濯物を取り込むことぐらいだ。それはきちんとやっているのだから、それ以上のことはしないという意識がある。しかし近頃は食器洗いくらいはしてもいいかと思っている。料理もいくつか作り方を覚えたいものもある。とにかく二人が協力共同しない限り我が家の維持・発展はない。二人の協力共同ということでは私達には大きな弱点がある。社会や人生に対する共通の価値観を持っていないことだ。これはなかなか難しいことだが、協力共同の核ともなる問題だから、何とか努力して育てていこうと思っている。子供がいないことがプラスに作用したと将来言えるようになりたいものだ。



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