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エッセー拾遺 ― 文芸誌のコラムから  作者: 坂本梧朗
1990年代

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第34説 詩と感情


 感情は詩にとって直接の母胎である。思想もまた詩を導き出す源泉だが、それは感情となって初めて詩を結実させる。詩は認識を伝えるが、それも感情を通して、或いは感情と一体となって伝えられる。詩が生まれるのは多かれ少なかれ感情が昂揚したときだ。感情によらずに純粋な知的興味から詩を作っていると主張する人もいるかも知れない。そういう人達は詩作に感情の昂揚などは不要で、むしろ巧妙な知的操作には有害だと言うかも知れない。そういう作品に私はあまり関心はないが、その場合でも、その人達が知的操作に充足感や楽しさを覚えているならば、それも詩作を動機づける一つの感情だと私は思う。充足感や楽しさは情緒を示す言葉だから。だから詩作を動機づけるのは常に感情だ。感情が人に詩作のペンを執らせる。  

 感情は一般的に自己と他者、自己と社会、自己と自然との間に生まれる。特殊には自己自身に対して生まれてくることもあるが、自己に対する感情の奥には、他者または社会に対する感情がわだかまっている場合がほとんどだ。だから総じて感情は自己と自己ならざるものとの接点で生まれてくると考えていいだろう。そういう意味では感情は自己と「他」(=自己ならざるもの)との交渉の産物であり、自「他」の関係を示すものだ。感情は本性的に「他」との関係を含んでおり、その「他」が他者や社会であれば、感情は本性的に社会性を含んでいるということになる。

 感情は詩の母胎だが、感情をそのまま文字にしても詩にならないのは周知のことだ。詩作は感情に溺れてはできないものであり、生まれた感情を理性的に見つめ直すことが、詩作の過程のどこかで、何等かの程度において、必要となる。自己の感情を見つめ直すやり方は人によって様々だろうが、私はそこに詩の社会性、或いは批評性を生み出す重要な契機が潜んでいると考える。感情を見つめ直す、即ち、その感情がどういうもので、どうして生まれたのかと考える時、我々はその感情の起点である自「他」の接点にまでさかのぼらなければならない。そうして自「他」の関係性をつかむ。自・「他」を改めて認識し直し、その関係の内実を把握するのだ。その後で自分を促えている感情をもういちど眺めると、その正体が見えてくることになる。その時、その人は詩を書ける状態になったということができるだろう。自「他」の関係性がつかめれば、そういう関係性に対する批評が自ら生まれてくることになる。それは自己の批評となったり、「他」の批評となったり、或いは自「他」を含んだもっと大きなものに対する批評となるかも知れない。詩の批評性はこうして生まれる。批評が自・「他」の関係の上に成立するものである以上、批評性は社会性と同義だ。逆に社会性は批評性をその重要な要素としていると言えるだろう。

 まとめると、感情は詩作の直接の母胎であり、動機となるものだが、感情に埋没していたのでは詩は生まれない。感情の起点にある自「他」の関係に理性的な目を注ぐとき、批評性=社会性のある詩が生まれてくるのだ。












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