第31説 詩の表現について
言葉は伝達を本質的な機能として持つが、日常生活において言葉を通じて行われる伝達と、詩や小説における伝達とは違っている。同じ文学のジャンルでも評論における伝達と詩や小説における伝達とはまた違っている。評論における伝達は言葉の使い方において日常生活でのそれと性質が近しいように思う。それはつまり、このような伝達では相手に事柄を知的に認識させることが目指されているということだ。「今火事だ」とか、「現在の社会では青少年が人間らしく育っていけない」などということは相手に抽象的・一般的に理解されればいいわけで、言い換えれば、言葉の意味さえ分っておれば達せられる伝達なのだ。ところが詩や小説における伝達はその様ではない。詩人が火事を伝達するとすれば、彼は現場に行き、燃える炎の前に立って、そこに何かを感じ、あるいは何かを発見しなければならないだろう。そうしてこそ彼が伝える「火事」は抽象的・一般的なそれではなく、具体的、一回きりの肉感的なそれとなる。つまり詩や小説における伝達には感性的な要素が多分にあるのだ。相手に事柄を知的にわからせるだけでなく、感じさせなければならないのだ。それがあたかも手で触ることができるようなものとしてそこにあるように感じさせること、これが詩や小説における伝達、つまり表現なのだ。
詩は小説とくらべてもこの感性的要素が大きい。詩において直感やインスピレーションが重んじられるのもそこに理由がある。抽象的・論理的志向の媒介を排して、感性的に対象をとらえ、感性から感性へ直接伝達しようとする志向が強くそこにはある。そしてそれは確かに詩的表現を生み出すのだ。逆に言えば、詩作の起点に直感やインスピレーションを含む何らかの感動がなければ、詩の表現は一般的・抽象的な日常的伝達と同質のものになる恐れがあるとも言える。考えてみれば、詩のレトリックはそのほとんどがこの感性的伝達を目的として案出され、機能しているといってよい。
感性的伝達が大事だということは珍奇な、人の意表を突くような表現をせよということではない。伝えたいものもないのに、表現だけをあれこれとこねくりまわすことではない。それは頭だけで詩を作る一つの型だ。感性的伝達の目的は伝えたいあるものを読者に知性だけではなく感性においても受けとらせることにある。悲しみが悲しみという概念として理解されるのではなく、心の震えそのものとして受け止められるということなのだ。
詩は確かに頭だけで作られるものではない。




