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エッセー拾遺 ― 文芸誌のコラムから  作者: 坂本梧朗
1990年代

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第27説 言葉と現実


 言葉の発生について考えてみよう。人間は群れをつくって集団生活をする動物であり、そのためには互いにコミュニケーションが必要となる。人間の場合はその集団生活の中核に労働という質的に高度な営為があり、その円滑な遂行のためには他の生物に比べて、より精緻なコミュニケーションが必要だった。人間は言葉を生み出し、操ることでそれを実現した。周囲の事物には名前がつけられ、事物を指示する言葉を操作することで人間は外界に対するさまざまな認識を得ることができた。それは労働の仕方の改善など、より適合的な生存にとって必要なことであった。労働を始め、いろいろな実践によって得た事物についての知識・情報は言葉によって整理され、複数の人間同士のコミュニケーションの中でさらに正確にされ、豊かにされていったはずだ。そしてそれは記憶として、あるいは文字が発明されればその形で蓄積されていく。こうして人間の脳中に蓄積されていく言葉は人間の内面的世界=意識(心)を形づくっていくようになる。まさに労働と言葉が今日の人間を作りあげてきたといえるだろう。

 私が言葉の発生を考えるのは、言葉が本来どのような機能をもつていたのかを確認したいからである。発生時、言葉の背後にはそれに照応する事物があった。言葉は事物との対応関係において機能していたのである。

 ところが、文化の進展につれて、言葉は事物の世界からの「独立性」をしだいに高めていく。修辞法の発達がその傾向の牽引車の役割を果たす。我が国の文化事象で例を上げれば、『万葉集』から『古今集』『新古今集』への歌風の変遷が端的にそれを物語っている。()が述べられているかよりも、()()()()()述べられているかが大切になっていく、とその流れを特徴づけてもいいだろう。この流れは近代以降は、象徴主義やシュールリアリズムなどの手法を経ることによって加速化し、変質していく。ここで変質とは、表現の評価に重心が移りつつあったとは言え、それまでは主眼はやはり事物を伝えることにあったのだが、この頃からしだいに事物を問題とせずに、表現自体を目的視する傾向が生まれることを言う。そして現代の日本においては、言葉を事物の世界=現実から全く切り離して、言葉を言葉そのものとして、作品を言葉の構築物としてのみ見るという立場を生むに至ったわけである。そこでは言葉自体が目的であり、言葉とその背後にある事物との連関は完全に断ち切られてしまうのである。

 しかし、この立場の不毛が最近広く自覚されだしてきたように思われる。この立場にたった詩人たちはさまざまな言語実験を繰り返し、それが「新しさ」として持て囃されてきたわけだが、それは詩が「難解」となり、読者を失っていく過程でもあった。

 この立場の不毛性の核心は何かと考えると、それは感動がないということであろう。感動は言葉の自己増殖からは生まれない。感動の源泉は事物の世界にあるからだ。事物の世界(現実)における経験が生み出す思念が、それを想起させる言葉に出会った時に感動は生まれる。そこでは言葉は事物の世界への仲介者として存在し、作品は事物の世界に対して開かれている。言葉は読み手(聞き手)に事物の世界(具体物とは限らない。抽象的なものを含めて、とにかく言葉ではないもの、言葉以前のもの)をいかに生き生きと感知させるかを目的として選択配置されている。修辞法がそこでは本来の使命にそって駆使されているのだ。

 修辞法は作者(語り手)が見聞した事物や抱いた思念などを、読み手(聞き手)に、あたかもそれが眼前にあるかのように生き生きと、あるいは説得的に伝えるために発達したものである。ところがいつのまにか修辞法それ自体が目的とされるようになっていった。そして言葉は伝えるべき事物の世界、即ち表現の対象をしだいに喪失していく。それは実は言葉の死を意味していたのではないか。言葉は発生の原点から考えても、事物の世界との活発な交渉をその命としているのだから。 言葉は事物の世界から切り離されると、自己をそのために統合し、組織化していく対象を失い、相互の有機的紐帯を断たれて解体していく。我々がこの立場に立つ人々の作品に見るのは、そのように解体された言葉の残骸である。彼等は「言語至上主義」などと呼ばれたりするが、決して言葉を大切にしているわけではなく、むしろ言葉を極めて無機的に取扱い、その命をスポイルしていると言わなければならない。

 言葉が事物の世界に対して相対的な独立性を持つのは言葉が事物そのものではない以上当然である。そしてこの独立性は過去の歴史において多くの専門家とも言うべき人々によって「拡大」されてきたように見える。しかしそれはあくまで相対的な独立性に止まるものである。この独立性を過大視し、絶対化するのは錯覚だし、その方向に実りがないことは既に明らかになっている。言葉の真の可能性は、言葉をその母なる大地である事物の世界から切り離す方向ではなく、逆にもっと事物の世界に密接させること、言葉と事物の世界との間に生きた太いパイプを通すことによって開かれてくるはずだし、そのほかにはありえないと思われる。













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