第24説 誰のために詩を書くか
詩を誰のために書くか。この問いに対して、自分のために、と答えることは間違っていない。しかし自分のためだけに、と答えるならば、それは間違っているだろう。詩人にとって詩を創ることは誰からも強制されない内心の欲求である。詩作という行為は自分の欲求の実現であり、充足なのだから、まずもって自分のための行為である、というのは分かりやすい論理で、私も異論はない。しかし問題は何時までもそこに止まっていていいのか、ということである。
詩作は自分のための行為という立場が発展しないならば、作品を発表して他人に読ませるという行為は積極的な意味を持ち得ない。この立場では詩人は作品を書き上げた時点で本質的な目的は達したのであり、その作品を他者の目に触れさせることは付け足しの行為でしかない。実際、「詩作は自分のための行為」という出発点においては正当な、或いは詩作を成立させる基盤の指摘としては重要な命題も、固定的に捉えられると読者を無視するという間違った立場に転化してしまう。
吉岡実という詩人がいる。『静物』『僧侶』などの詩集で「詩壇」から高い評価を得た詩人である。思潮社版の詩集の末尾に高橋睦郎による彼へのインタビューが載っている。その中に、「あなたは誰のために詩を書くのか」という項目があり、吉岡実は「自分のため、自分を支えるためです」と答えている。さらに「無名から有名になられてとまどいがありましたか」と問われて、「いくら自分のために書いているとはいえ伝達の道具を使ってつくっている以上、少数でも自分をわかってくれる人ができたことは、励みになった」と答えている。他人の理解は目的にはしていないが、理解してくれるなら嬉しい、という口吻である。吉岡の詩は初期の『静物』、『僧侶』などの詩集の作品では、難解ではあるが、なお一つのイメージが観取され、それが作者の内心の真実を担っているのが感じられるのであるが、H氏賞を受賞して以後の作品は何のイメージも結ばなくなり、しかも軽くなっていく。彼は俳句を作る人であるらしいが、イメージの喚起力のある重い言葉が各行毎に脈絡もなく頻出するので、互いに打消し合って何のイメージも結ばないのだ。つまり彼の詩の世界に入ろうとする読者の知的努力は各行毎に弾き返されるのだ。逆に言えば、彼の表現は読者の理解など全く求めていない。それは正しく彼のための表現である。彼は彼一人のために彼の詩を書いており、吉岡実の詩を理解できる者は実は吉岡実一人しかいないのだ。しかしこのような詩を吉岡実以外の人間が読むことに何の意味があるだろう。理解できたとしたらそれは奇跡か、或いは、(作者にとっては)一つの誤解が生じたということに過ぎないだろう。誤解で結構という向きもあるだろうが、初めから理解を目的とせずに文字を読むことは、目で対象を捉えながら識別を放棄することと同様に不自然な行為だ。それこそ頭痛がして、神経症に陥ることになろう。
吉岡の詩がこのような軌跡を描いたのには「詩壇」の評価が大きく与かっているだろう。その表現の「難解さ」が評価されたため、吉岡は自信を持ち、読者への顧慮などは一切捨てて、その道を突き進んだと思われる。そして彼の亜流がその後に続いた。吉岡には少なくとも初期には認められる内心の真実を、亜流たちは抛擲して、専ら表現上の「難解さ」をまねた。その流れが現代詩の「主流」を形成し、そして現代詩は「衰退」してきたのだ。当然のことだ。作者のためだけに書かれた詩をどうして作者以外の人間が読む必要があるだろう。
自分のためだけの詩であれば実は発表する必要はないのだ。日記帳にでも書き付けておけばよいのだ。ところがそれでは満足ができないわけだ。発表するのは他者の目に晒したいわけで、この欲求が単なる見栄や自己顕示以上のものであるならば、詩作における読者の存在の意味を我々はもっと真剣に考える必要がある。読み手の存在は書き手の内心の真実と同じ程度に詩にとって本質的な契機なのではないか。読み手の存在を内側に含み込んでいない作品は、実は作品として成立していないのではなかろうか。
現代詩の「主流」を形成してきた人々には「詩作は自分のためだけの行為」という考えが濃い。これは「荒地」の人々の思潮を受け継いでいると思われる。戦時中、軍国主義ファシズムの圧制の下で個性や自我を抑圧され、剥奪された体験への反動が、「荒地」の詩人たちを個我の固執に向かわせた。更に大衆から切り離された知識人の孤立意識が彼らに大衆不信、蔑視を植え付けた。この二つが「荒地」の主流をなす人々の思想的土壌である。「本質的に、モダニズムといわれる二〇世紀芸術は、すべて人間不信に出発している」と木原孝一は述べているが(「世界非生界」)、「モダニズムの崩壊を自覚し、厳しい自己反省を伴いつつ戦後詩の再建をめざした」(新潮社『日本文学小辞典』「荒地」の項。木原孝一執筆)という「荒地」の活動も、大衆不信と裏表の個我の固執という殻を打破できなかった限り、モダニズムを克服することはできなかった。そしてそれが現代詩の「主流」として受け継がれているのである。人間不信が彼らの暗黙の合言葉である。他者を信じられない罰として、固執していた自我さえ怪しくなり始めたというのが近頃流行の「私」の解体だろう。我々はそろそろこのような衰弱した詩精神と訣別する必要がある。
現代詩の「主流」が読者を見失ってから久しい。我々は読者を発見しなければならない。誰のために書くか。この問いを自分に突きつけ、その答えが具体的なものになっていくにつれて、我々の詩の主題と表現は新しい血をその内部に通わせ始めることになろう。




